〔 峰山(みねやま)〕  相模原市 2018.8.22    ■ LC-Micro-Slider[jQueryScript.net] ■ 山のページへもどる
BGM:『 月の雫 』  
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#01コメント 】 屋根付きの案内表示(木製の標柱)が面白いと思った(左の画像)。逆光のため標柱に書かれている文字のあたりが暗くなり、書いてある文字が分かりにくかった。ピント調節で「明るめ/暗め」に測光する場所を変えながら、同じ標柱の写真を何枚も撮影した。ちょうど坂の上から、竹で編んだ籠を背負ったお年寄りが下りてきて「写真撮ってくれて、ありがとね」と言った。感謝の言葉の意味がよく分からず、「屋根付き表示が、
城下町らしい雰囲気でいいなと思いました」と返したら、「案内表示をたてるのに、若い衆がいろいろ苦労していて、金属製の標柱にしようという話もあるみたいだけど...」とのこと。話を聞くと、「若い衆」というのは、息子さんか息子さんの世代で「菅井同志会/同志会名所旧跡保存会」所属の人たちか、関係者の方たちを指しているのではないかと思われる。いい機会なので「大久和」という地名の読み方を聞いてみた。「おおぐわ」とのこと。「私らは『おおがぁ』(「ぐ」と「わ」をほとんど同時に言うような発音)と言ってます」。「ぐわぁ」?「がっ」?「ぐゎっ」? 自分でもいろいろ発音してみたが、おばあちゃんのような発音にはならない。「これから伏馬田城址へ行って、伏馬田入口バス停へおります」と言ったら、「伏馬田城址ももう少し整備するといいんだが、何んにもないとこだよ。熱中症に気をつけてね」と気遣ってくれた。立場があべこべになってしまった。農作業するような格好だったので「おばあちゃんこそ、気をつけて下さいヨ」と言って別れた。別れ際のおばあちゃんのニコニコした笑顔が印象的だ。
解説 】    ※ 画像クリック拡大表示

#1-1峰山 〕 旧牧野村のほぼ中央部にある海抜 570mの峰山。この山は古来から燃料の宝庫として、木拾い、薪作り、炭焼き、茅刈りなどを通して、四季折々の地域住民の生活を支えてきました。頂上には、古峯神社が建立されています。祭神は日本武尊で、開運、火防などあらゆる心願成就を導く神として、地域の人々に崇敬されてきました。頂上近くの参詣道に「風神」「竜神」「水神」の3つの石塔が造立されています。共に五穀豊穣を願って建て
られたものと思われます。(「癒しの里山歩きと温泉が楽しめる Magino やまなみ公園 峰山自然公園」)

#2-1峯山の紹介 〕 旧牧野村のほぼ中央部に、海抜570メートルの峯山(峰山)があり、この山の頂上の平坦部には古峯(ふるみね)神社が建立されている。祭神は日本武尊で、そのご神徳は開運、火防などあらゆる心願成就をみちびく神として、地域の人々に崇敬されていた。本殿には、明治廿二稔(年)五月三日「奉再建古峯神社」の棟札があり、明治22年(1889)、宮野利右衞門(堂地)と佐藤四郎吾(中尾)によって古峯ヶ原講(こぶがはらこう)
が結成され、平成2年で講中結成100周年を迎えた。この神社の本社は、栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原にあり、代参者はご神前でご祈祷を受け、玉串を奉奠(ほうてん)し、ご神符をいただいて帰るのが仕来たりである。例祭は、昔から春秋二季行われてきたが、現在は毎年5月3日1回だけとなった。峯山には4本の参詣道があり、頂上より少し下ったところに、風神・竜神・雨神の3つの石塔が造立されている。共に五穀豊穣を願って建てられたものと思われる。また、建武の昔、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし(もりなが))親王(しんのう)のお妃、雛鶴姫(ひなづるひめ)が青山(津久井町)から秋山(山梨県)へ向かわれる途中、峯山越えをされたとの伝説がある。

#3-1(※ 『峰山』は登山道入口と同じ文面《省略》)
雛鶴姫(大塔宮の侍姫(じき))故事 〕 ※ 峰山の近辺の地区には、さまざまな伝説が残っています。
建武の乱の際、足利直義の命を受けた、渕辺伊賀守義博により建武2年(西暦1335年)、鎌倉二階堂谷で、後醍醐天皇の第1皇子である大塔宮・護良親王が殺害されました。その御首が生きているようでかつ口中に剣の先を含んでいる様をみておそろし
くなった義博は、御首を藪の中に棄てて逃げ去ったそうです。凶事を聞いた近臣松木宗忠が御首を箱に納めて鎮め、相州寒川神社から三増峠を越えて甲州秋山村、さらに富士浅間宮司の家に至り、御首を内宮に隠秘し奉った。御首は山梨県都留市の石船神社に現存するといわれています。そのとき護良親王の子を宿していた雛鶴姫は、菊地、馬場両氏と宮の守護神だった天神倦とともに遺骨を納めるために鎌倉を発ち、東海道に向かう際、旧津久井郡青山村を通りました。姫はみごもっていたため疲労激しく、この地にしばらく滞在し、その間に護良親王の35日忌ということで供養塔を建立しました。後に甲州に行く途中、小舟地区の「大下」という家に泊まり、秋山村に向かったといわれます。甲斐国秋山の麓にさしかかったところで産気づき、王子を分娩したが姫は死去してしまい、ここに葬られ、それ以降雛鶴峠と呼ばれるようになりました。現在は秋山集落の一番奥にある無生野の雛鶴神社に祀られており、いまでも文化財指定「無生野の大念仏」としてこの悲劇は伝承されています。姫が産気を催したのは、秋山川の上流であり、お産の汚れで秋山川の川石には赤色を呈している石が多いといわれています。

#4-1 #4-2経塚(きょうづか)〕 経塚は経典を土中に埋納した塚のことで、仏教的な作善行為の一種、経塚を造営する供養のことを埋経という。この石仏は埋納した塚の上に五輪塔を建てた頭部が以前この付近から出土したもので、平成30年2月11日尾崎城跡保存会が、この地に遷座したものです。平成30年2月 尾崎城跡保存会

#5-1 #5-2尾崎原付近の名所旧跡 〕 @ 尾崎城趾 A 人潰(ひとつぶ)れ B 囲戸入口
C 犬沢(いぬざわ) D 経堂跡(きょうどうあと) E 井戸沢 F 仁撮影地跡
G 子之(ねの)神社跡 H 石仏(いしぼとけ) I 家引(えびき) J 北角(きたぐろ)
K 立道(たつみち) L 宮ノ窪 M 門(かど) N 蓮真坊寺(れんしんぼうじ)跡
O 堂屋敷(どうやしき) P 椚戸(くぐど) Q 経塚(きょうづか) R 中通り
尾崎城と尾崎原のご案内 〕 その昔、ここ菅井の尾崎原(おざきっぱら)山頂(城山(じょうやま))には尾崎城(別名:伏馬田城)があり、その城は後北条氏の家臣団で内藤左近将監影定が津久井城主の時代、烽火台(ほうかだい)を兼ねた出城として津久井衆の一人であった尾崎掃部助(尾崎掃部頭)が城主として守っていた。この事から「尾崎城」と呼ばれている。北条氏は、津久井を甲斐武田氏からの脅威を防ぎ止め、北武蔵進出への重要な拠点として確保する必要があった。そのため甲斐の国に隣接している尾崎城が西の砦として軍事的要衝の地であった。また、尾崎原は官や寺などがある大きな集落となっており、六つの街道が交差し、交通の中心として大変栄えていた。その後、天文5年(1536)甲斐武田軍との戦いがあり、武田側の記録である勝山記には『小林刑部左衛門(こばやしぎょうぶざえもん)殿……相模ノ青根(ヤ)カラヲチラシ被食候、足弱ヲ百人計御取候、蓮真坊寺(れんしんぼうじ)焼申候』とあり、足軽隊百人ほど討ち取り、堂屋敷にあった蓮真坊寺を焼き払ったと記されている。また妙法寺記や甲斐国史にもほぼ同様なことが記されている。したがって昔この地菅井は政治経済の重要な拠点であり、数多くの昔にちなんだ地名が残っている。 《菅井同志会・同志会名所旧跡保存会》

#6-1咢堂桜(がくどうざくら) 〕 ここ、伏馬田城跡は、甲斐武田氏と後北条氏とが勢力を分かつ要衝の地でした。往事の城主は、本町日連に居を構えた尾崎掃部介(かもんのすけ)でした。この後裔(こうえい)にあたるのが「憲政の神様」と言われた尾崎行雄(咢堂)翁です。咢堂翁は、明治45年2月、当時東京市長を務めておられ、日米友好の証として荒川堤の桜3000本(12品種)を米国に贈りました。この桜は首都ワシントンのポトマック公園に植えられ、世界的にも有名な桜の名所となっ
ています。この由緒ある桜を足立区では、区制50周年(昭和56年2月)にあたり、3000本の里帰りを実現させました。そしてそのうち32本(4品種)が咢堂翁の生誕の地である津久井町に寄贈(平成4年2月)されました。当地のサクラは、「尾崎行雄を全国に発信する会」の好意で、2種類の「咢堂桜」を植樹することができました。今後、地域の方たちと共に大切に育てていきたいと思います。
 平成4年4月5日 藤野町教育委員会・伏馬田自治会