【 解説 】 画像クリック拡大表示
〔 調布浄水場跡 〕 この区域は、その昔、多摩川の水をくみあげて、地域の飲み水を供給していた「調布浄水場」の跡地を利用して整備したものです。昔使用されていた浄水場の姿がよくわかるように、その形をできるだけ残すようにしました。沈でん池だった所には、池をつくり湿性植物を植え、ろ過池だった所には、四季の野草と地被植物を植えました。また地下の配水池だった所には、雨水を貯めて、池の補給水として利用しています。
〔 セーラム市 大田区 姉妹都市提携30周年記念 〕 セーラム市はアメリカ合衆国マサチューセッツ州に位置し、ボストンから車で約1時間の昔ながらの風情を残す街です。17世紀に魔女裁判が行われたことから、「魔女の街」として知られ、街には魔女のマークが溢れています。大森貝塚を発見したエドワード・モース博士が、セーラム市のピーボディ・エセックス博物館(当時のピーボティー科学アカデミー)の館長であった縁から、1984年に大田区立 郷土博物館と姉妹館になり、その関係が発展し、1991年にはセーラム市と大田区が姉妹都市となりました。以降、訪問団の派遣や受け入れを行う等、両都市間の交流が続いています
〔 国指定史跡 亀甲山(かめのこやま)古墳 〕 この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(えばら)(台)古墳群中最大の前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪(はにわ)、葺石(ふきいし)等がないことや、その古墳の形により、古墳時代前期後半(4世紀後半)頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。 この前方後円墳は、後円部南端を浄水場(現水生植物園)建設工事により削られているものの、比 較的よく原形を保っている。港区芝公園内にある芝丸山古墳とならんで、都内を代表する古墳である。昭和3年、国の史跡に指定されている。大田区
〔 亀甲山古墳(かめのこやまこふん)〕 この古墳は文化財(国指定史跡)ですので、学術調査及び管理上必要な方以外は中に入れません。大田区多摩川台公園(管)・大田区教育委員会
〔 多摩川台古墳群 所在地−田園調布1丁目、多摩川台公園内 〕 宝莱山古墳と亀甲山古墳の間に挟まれて位置する9基の円墳は、古墳時代後期に小形の古墳が密集して造られる群集墳に相当すると考えられている。昭和62年以来の調査によりその墳形の見直しがなされ、第8号墳は、古墳ではないことが判った。多摩川下流では、この古墳群が最終末の時期に当たり、これ以降古墳は造られなくなる。
〔 木棺(もっかん)に埋葬された首長(しゅちょう) 〕 棺(ひつぎ)の中には、美しく盛装した先代の首長と共に、首長が生前愛用していた武器や装身具、首長のシンボルとしての鏡などが副葬品としておさめられている。周辺ケース内に展示されている出土品も、昔はこのように美しい姿をしていた。この副葬品の種類や量を調べることによって、首長が埋葬された年代、武人(ぶじん)として活躍したのか、もしくは文人(ぶんじん)として優れていたのかなど、首長としての性格・ 権力、他地域の首長との関係、古墳時代の生産技術や生活の様子など、いろいろなことが考えられる。
〔 東京都指定史跡 多摩川台古墳群 〕
所在地:大田区田園調布1丁目63番 同4丁目3番
指定:平成12年3月6日
多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡 亀甲山古墳、北側には東京都指定史跡 宝来山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(4世紀)に築造されている。 古墳群は、最初に二号墳が6世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長39メートル)が6世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径13〜19メートル)が7世紀中頃まで継続して築造された。発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀(ちょくとう)や鉄鏃(てつぞく)等の武具類、耳飾りや管玉(くだたま)等の装身具類、馬具の轡(くつわ)、須恵器(すえき)や土師器(はじき)が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。 平成13年3月31日 設置 東京都教育委員会
〔 東京都指定史跡 宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)〕 宝莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区立多摩川台公園西端の標高37.5m付近に築造された前方後円墳である。国指定史跡亀甲山古墳に次ぐ全長97mの規模をもち、古墳時代前期前半(4世紀前半)に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107mの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和9年に後円部が土取り工事 で削平された際に、粘土槨(ねんどかく)の埋葬施設が発見され、四獣鏡(ぼうせいしじゅうきょう)、紡錘車形碧玉製品(ぼうすいしゃがたへきぎょくせいひん)、玉類(たまるい)、剣(けん)、槍(やり)等が出土している。現在、この出土品は、慶應義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。また、レプリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。平成7年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状(ばちじょう)」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明らかにされた。墳丘は、後円部三段、前方部二段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成8年3月18日付けで、東京都指定史跡に指定された。大田区
〔 東京都指定史跡 宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)〕
所在地:大田区田園調布4-4/指定:大正15年4月(平成8年3月18日種別変更)
宝莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、標高37.5メートル付近に築造された全長約97メートルの前方後円墳で、4世紀に築かれたこの地域最古のものである。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和9年に後円部が土取り工事で削平され た際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣などの武器類が出土している。平成7年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状(ばちじょう)」に広がる形をとることが明らかにされた。墳丘は、前方部二段、後円部三段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要である。平成10年3月 建設 東京都教育委員会
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