上飯田せせらぎ緑道 〕 横浜市泉区 2019.3.24    ● smSlider[jQueryScript.net] ● スポットへもどる
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  • 〔 1/42 〕 市営地下鉄「立場(たてば)」駅から長後街道を歩く。富士山がきれいだ。「和泉坂上」付近にて。
  • 〔 2/42 〕 畑を隔てて富士山を望む
  • 〔 3/42 〕 ズームイン
  • 〔 4/42 〕 飯田神社へお参りする。「解説」参照。
  • 〔 5/42 〕 本殿
  • 〔 6/42 〕 鐘楼
  • 〔 7/42 〕 「飯田神社 由緒」。「解説」参照。
  • 〔 8/42 〕 神奈中「台村(だいむら)」バス停。奥は「いちょう団地」。
  • 〔 9/42 〕 「上飯田せせらぎ緑道」入口と思われる
  • 〔 10/42 〕 遊歩道へ入る
  • 〔 11/42 〕 カロライン・ジャスミン(または、カロライナ・ジャスミン)。マチン科。
  • 〔 12/42 〕 同上
  • 〔 13/42 〕 ツクシ(土筆)。トクサ科。
  • 〔 14/42 〕 遊歩道のサクラ
  • 〔 15/42 〕 団地に沿って歩く
  • 〔 16/42 〕 右前方に案内板がある
  • 〔 17/42 〕 「上飯田せせらぎ緑道案内図」
  • 〔 18/42 〕 左に「いちょう小学校」の校舎が見える
  • 〔 19/42 〕 サクラの淡いピンク色がきれいだ
  • 〔 20/42 〕 方角案内板を通過
  • 〔 21/42 〕 「羽太(はぶと)郷土資料館」へ向かう
  • 〔 22/42 〕 遊歩道に鉄柵が設置されている
  • 〔 23/42 〕 後ろを振り返って。「いちょう団地前」交差点にて。
  • 〔 24/42 〕 「道祖神」・「二十三夜塔」の石柱を通過
  • 〔 25/42 〕 大きな案内板がある。現在地を確認。
  • 〔 26/42 〕 「五軒庭プロムナード及びせせらぎ緑道案内図」。「案内図」参照。
  • 〔 27/42 〕 せせらぎの流れに沿って遊歩道を歩く
  • 〔 28/42 〕 方角案内板がある。右手「本興寺(ほんこうじ)」へお参りする。
  • 〔 29/42 〕 参道から境内へ
  • 〔 30/42 〕 仁王門。手前に石碑と案内板がある。「解説」参照。
  • 〔 31/42 〕 本堂。「法華山 本興寺」。
  • 〔 32/42 〕 鐘楼。せせらぎ緑道へもどる。
  • 〔 33/42 〕 案内板を通過。せせらぎの上流へ。
  • 〔 34/42 〕 「上飯田せせらぎ緑道案内図」
  • 〔 35/42 〕 せせらぎが遊歩道より一段高い場所にある
  • 〔 36/42 〕 「羽太郷土資料館」の案内標識を通過
  • 〔 37/42 〕 東海道新幹線の下を通り抜ける
  • 〔 38/42 〕 右手に竹林がある
  • 〔 39/42 〕 羽太郷土資料館に到着
  • 〔 40/42 〕 資料館の石標
  • 〔 41/42 〕 「江戸柳明(えどやなみょう)古地図」。街道筋に立ち並ぶ商家の地図。
  • 〔 42/42 〕 中屋敷(なかやしき)バス停から戸塚駅へ出る。バス停前に本興寺の門がある。
コメント 】 「上飯田せせらぎ緑道」は神奈中バス「台村(だいむら)」バス停から「羽太(はぶと)郷土資料館」までと思われる。横浜市道路局HPに掲載されている地図には「せせらぎ緑道」が「台村」バス停から北へのびている(下の「地図」参照)。台村バス停付近には小川のような「せせらぎ」はないが、バス停から少し歩くと「上飯田せせらぎ緑道案内図」がある。「いちょう団地前」交差点をすぎて団地沿いに進むと、「五軒庭プロムナード及びせせらぎ緑道案内図」の大きな案内板が設置されている。この案内板あたりから「せせらぎ」に沿って遊歩道を歩くようになる。この案内図を見ると「せせらぎ緑道」が「羽太郷土資料館」まで伸びていることがわかる(右の「案内図」参照)。  
解説 】    ※ 画像クリック拡大表示

#1-1〔 飯田神社 〕
 境川(さかいがわ)や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神(さいじん)は源義朝(みなもとのよしとも)を主神(しゅしん)に宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)・大山咋神(おおやまくいのかみ)です。伝承によると、飯田五郎家義(いいだごろういえよし)がお祀(まつ)りしたといわれています。縄文時代、境川沿いは入(い)り海(うみ)で、神社の境内(けいだい)の土手から縄文後期の人々が使った注口土器(ちゅうこうどき)が出土しました。境内の神楽殿(かぐらでん)は、明治20年頃、飯田学校校舎として使われていました。鳥居前には地蔵像(じぞうぞう)・七観音像(しちかんのんぞう)・庚申塔(こうしんとう)・道祖神(どうそじん)が立っています。  泉区役所

#1-2〔 飯田神社 由緒 〕
 勧請(かんじょう)年代は定かでないが、往古から当地に鎮座している古社であると伝えられている。社伝に「延應元年(1239)飯田三郎能信 当郷の地頭ニ復スルヤ厚キ奉幣ノ儀アリ。猶知行平山源大郎ノ崇敬特ニ深カリシ社ナリ」と伝え、寛政12年2月、式部権大輔菅原長量が「飯田大明神」の神号額を奉納、また文化13年2月には神祇管領卜部(うらべ)良長が京都から参向して奉幣、祝詞を奏上しているから、有数の古社であった事が知られる。新編相模風土記稿に「飯田明神社 鯖明神とも唱ふ 村の鎮守なり 稲荷 山王を合祀す 村持」とある如く 境川添いに祀られている 往古からの相模七鯖の一社で 境の神としての幾多の伝承も残されている。昭和30年に現社殿を、また55年には参道並びに境内地の玉垣設置等氏子の赤誠の浄財により各々完成、社頭の面目を一新した。 宮司 宮本忠直記

#1-2〔 本興寺 縁起 〕
 当山は日蓮聖人が鎌倉に於いて辻説法をなされた旧地に弟子の天目上人が休息山本興寺を建立せられましたが、其の後日什上人が法華山本興寺と改称され自ら開基となられました。日什上人は比叡山学僧三千の学頭でありましたが、日蓮聖人の教風に感激し御年67才の時、天台より日蓮宗に改められ、称?来鎌倉本興寺を據点とし京都との間を往返数次、禁裡の奏聞三度、武家の諫暁数回、寺院の建立数ヶ寺に及び大いに宗風を宣揚せられました。其の後当山二十七世常楽院日経上人は各宗と法論して之を撃破せられ、殊に徳川家信奉の浄土宗と江戸城中にて法論に及び、為に慶長14年弟子五人と共に京都六条河原に於いて「耳鼻そぎ」の極刑に処せられました。己来当山に対する圧迫甚だしく、為に万治3年本立坊は什宝と共に担家を引き連れ当所に移転せられました。本年より310余年前であります。仁王門は天明5年建立。本堂は明治2年に再建せられ、堂内の欄間には釈迦、日蓮、日什の諸聖の一代記を表す54面の彫刻、扉には七福神の彫刻あり、又御宮殿の造作は大変精巧を極めて居ります。宝物として日什上人の絵曼荼羅、上人ご使用の桧扇、日経上人の血曼荼羅等があります。

#1-1絹本著色法華宝塔曼荼羅(けんぽんちゃくしょくほっけほうとうまんだら)一幅 〕 横浜市指定有形文化財(絵画)
 平成2年11月1日指定 / 所有者:宗教法人 本興寺(ほんこうじ)/ 寸法:縦 99.8センチ 横 42.3センチ
 虚空に湧出した宝塔中の多宝如来が、釈迦如来を迎えいれて併坐したという法華経説話を図示したものです。塔の上部に天蓋(てんがい)を浮かべ、その左右に日月を配し、九輪の塔頭(たっちゅう)から軒先に引かれた索条(さくじょう)に左右六体ずつの化仏(けぶつ)が懸かり、両如来の中央には「南無妙法蓮華経」の銘札が置かれています。塔の周辺には四天王、愛染・不動両明王、四菩薩、十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母神などが配されています。この図様は、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』に依拠する「曼荼羅本尊」を図絵したと思われ、京都・直行寺(じきぎょうじ)本が知られるほか、類例が少ないようです。截金(きりかね)を用いるなど華麗な色彩を以って描出された、14世紀末葉(まつよう)の制作と思われる佳作です。なお、本寺には永徳4年(1384)の年記のある同図様の版木と、その版刷りも伝存しています。
 平成3年3月 横浜市教育委員会