【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 総合案内板 〕・〔 豊顕寺(ぶげんじ/案内板は「ぶけんじ」)〕
名称:法照山豊顕寺/本尊:十界曼荼羅 並びに 本仏釈尊/境内:1万坪(約 33,000m2)
三河国(豊橋市)の多米(ため)氏が郷里の多米村に本顕寺(ほんけんじ)を創建し、菩提所(ぼだいしょ)としたのが豊顕寺の前身です。その後、多米氏は小田原北条氏の部将となり、三ツ沢を領地としていました。そして老後は入道して天文5年(1536)に、本顕寺をこの地に移して寺号を法照山豊顕寺と改めたのがこの寺の始まりです。
江戸時代、享保9年(1724)になると豊顕寺は僧徒が集って学問修業をする道場となり、三澤壇林(みつざわだんりん)と呼ばれるようになりました。当時の境内は、5万2千坪(約 170,000m2)、学舎5棟、学寮25棟とその規模は極めて広大なもので、僧徒は300人を常に下ることはなかったということです。当時を偲ぶものとして、樹齢600年を数える大銀杏(おおいちょう)、鷲津藤(わしづふじ)、赤門(壇林の門)などがあります。豊顕寺は壇林の盛んな頃から桜の名所として知られ、全山の桜花は見事なものでした。今でも往時を偲ぶ200本の桜が目を楽しませる「豊顕寺市民の森」として親しまれています。
● 壇林道
三ツ沢壇林で学ぶ僧徒達が通る道は「壇林道」と呼ばれていました。壇林道は神奈川宿から本覚寺裏を通って三ツ沢豊顕寺へ向かうコースと、旧東海道を芝生(しばう?)村(浅間下(せんげんした)付近)から北に入って豊顕寺へ向かうコースがありました。
〔 三ツ沢せせらぎ緑道 総合案内図 〕 ※「地図」参照(PDF・7MB)
三ツ沢せせらぎ緑道は、滝の川跡地を利用して、周辺の豊かな自然を残し、地下鉄から湧き出る地下水を使ってせせらぎをつくった水と緑の散策路です。この緑道は、区役所周辺と三ツ沢公園、豊顕寺市民の森一帯とを結ぶ神奈川区の広域的散策路としてみなさんに活用していただくとともに、通勤、通学、買い物などが安全で快適にできるように整備したものです。
〔 小松石 〕
三ツ沢せせらぎ緑道では、総合案内板の台石に小松石を使っています。この石は昭和62年に西区の掃部山(かもんやま)付近で約100mにわたって発掘された明治時代の下水道に使われていた石材を再利用したものです。横浜は早くから上下水道が整備されてきた都市であり、全国的にみても注目すべき遺構が数多くあります。この小松石を使った下水道は「石造箱型暗渠(いしづくりはこがたあんきょ)」といわれるものです。小松石は、神奈川県真鶴で採掘される全国でも有数の歴史をもつ石材です。古くは鎌倉時代の頼朝の墓をはじめ、北条一族の墓などこの時代の石塔のほとんどが、小松石でつくられました。また小田原城や江戸城築造のおりの城郭(じょうかく)の石垣、江戸の土木、建築の大工事には、大量の石材が真鶴港から海上輸送されました。岩石学のうえでは輝石安山岩で、石質は堅硬(けんこう)、耐久性耐火性は花崗岩より強い点が特色です。真鶴産小松石は、安山岩系の大自然が生みだした最高傑作の美石材といわれ、研磨すると小松石独得の淡灰色の緻密な石面が現れ、柔らかな光沢を発し、温かみを感じさせてくれます。近年は最高級墓石として人気があり、需要に応えるだけの産出量が望めないことから、稀少価値が高まっています。
〔 三ツ沢せせらぎ緑道の水 〕
せせらぎの水は、市営地下鉄の三ツ沢上町、三ツ沢下町の両駅に湧き出ている地下浸透水(しんとうすい)を水源に利用した珍しいものです。限られた地下浸透水の水量をせせらぎ全体に流すために、緑道の地下にパイプを埋設し、循環させています。また、日によって水量にばらつきがあるので、水量を一定に保つようにも工夫されています。この水は様々なろ過設備で浄化してから、せせらぎの水として再利用しており、大雨の時など、水量が急激に増加した時に備えて、数か所で下水道に放流できるようになっています。このように、せせらぎの水は、人工的なしくみによって流れていますが、次第に自然の生き物や子供達が放流した魚などの棲息地(せいそくち)になってきています。いつまでも美しいせせらぎの水が保てますように、皆様の御協力を御願いします。
〔 豊顕寺(ぶげんじ) 〕
当寺は、法照山と号す法華宗 陣門流 総本山 本成寺末の寺院です。三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正(えいしょう)12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文(てんぶん)年間(1532〜1555)北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。享保(きょうほう)5年(1720)本宗の壇林として学舎5棟、学寮25棟を建設し開講式を挙行しました。学徒は300人を下らぬ盛況を極めたといいます。その後も再建・増築をし宏大な規模になりましたが、明治期になり火災による焼失、大正期の地震による倒壊によって壇林は廃絶いたしました。境内には、鷲津(静岡県)の本興寺から根分けした藤を記念しての碑が藤棚の下にあり、また、江戸から保土ヶ谷宿に来宿し、宿内の人々に歌学を教授した山平伴鹿の歌碑があります。多米家歴代の墓は、境内左側にあります。 横浜市教育委員会文化財課・財団法人 横浜国際観光協会 平成5年3月
〔 斜面の雑木林 〕 三ツ沢せせらぎ緑道では、豊かな緑陰をつくりだしている斜面の雑木林を、自然のままに残しました。雑木林は、昆虫や鳥などたくさんの生き物の棲み家にもなっています。雑木林で多く見られる木には、次のようなものがあります。 榎(えのき)・欅(けやき)・水木(みずき)・青木(あおき)・棕櫚(しゅろ)・椿(つばき)・粗樫(あらかし)・藪肉桂(やぶにっけい)・榊(さかき)・白樫(しらかし)・八手(やつで)
〔 榎(えのき)〕 夏に木陰をつくる木という意味で、榎という字があてられています。昔は一里塚によく植えられました。橙色の実は甘くて小鳥達の大好物です。国蝶のオオムラサキは、雑木林の中から榎をさがし出して、その葉や枝や幹に産卵します。そしてふ化した幼虫は、榎の葉を食べて美しい蝶に変身します。
〔 水木(みずき)〕 春先に枝を折ると、水のような樹液がしたたり落ちることから名づけられました。小枝が車輪状に出て横に広がる独特な樹形をしています。材質が白くなめらかなので、伝統こけしに
使われています。
〔 欅(けやき)〕 欅は関東地方に多く寿命の長い木で、すらりと伸びる冬木立が際だって目立つ木です。春の芽吹き、夏の涼しげな緑陰、秋の黄色から赤茶色へと変化する黄葉などが季節感を美しく演出してくれます。木目が力強く美しいので、座卓や太鼓の胴などに生かされています。
〔 滝の川 〕
滝の川は、三ツ沢と六角橋方向からの二つの流れが、神奈川区役所付近で合流して、横浜港に流れ込む川です。この川は周辺の都市化が進むにつれ、埋められて元の姿を消した部分がかなりあります。三ツ沢せせらぎ緑道も滝の川が生まれ変わったひとつの姿です。昭和初期まで三ツ沢は、田と畑の純然たる農村地帯でした。その頃、滝の川の水は潅漑(かんがい)用水として利用されていて、子供達の格好の遊び場でもありました。水深は浅く、底は岩盤で、清流にはミヤコタナゴやウナギをはじめとして沢山の魚がいて、子供達は魚の習性をうまく利用して「掻(か)い掘り」「流し針」「穴掘り」などの方法で魚を捕まえていました。
● 滝の川の河童伝説 滝の川には、昔から有名な河童伝説があります。昔の人々は、子供達を水の事故から守り、生活に欠くことのできない川の水を大切に扱うために、河童伝説を信じ、子供達へ代々語り伝えていきました。
〔 滝の川河童のプロフィール 〕
・住み家は権現山のずうっと奥の方 / ・夫に先立たれた500才の白髪頭の古雌河童で子供2人 /
・河童の鳴き声 ヒョーヒョー / ・性質は、人間に悪さをするが、義理堅く約束は必ず守る
〔 緑道の鳥 〕
メジロ 〜 チィー チィーと細い声で鳴き、暗緑色の体で目の周囲が白いです。体をくっつけ合うことがあり、「目白押し」というたとえが生まれました。
シジュウカラ 〜 ツーピー ツーピーと高く澄んだ声で鳴きます。スズメと同じ位の大きさで、のどから腹にかけて黒いネクタイを締めたような模様があります。
ヒヨドリ 〜 ピィーヨ ピィーヨとかん高く鳴きます。頭はボサボサで床屋から逃げてきたような感じです。体は灰色で腹に細かな美しい模様が入っています。
キジバト 〜 デッデッポーポーと鳴きます。羽の模様がキジに似ていることからつけられました。背とつばさのうろこ模様が特徴です。
ハシブトガラス 〜 カー カーと澄んだ声で鳴きます。都会に多く全身まっ黒で、くちばし太く、額がでっぱっています。くちばしの細いハシボソガラスと区別されます。
〔 水辺の生き物 〕
アメンボ 〜 表面張力を利用して水面をすべるように動きまわります。水面に落ちてきた昆虫や小動物を捕らえ、体液を吸います。水あめのような匂いがあるので、この名がつきました。
カワニナ 〜 日本中で最も普通に見られる淡水の小さな巻貝です。成長した貝は殻の先端が欠けていることが多いです。ホタルの幼虫はこの貝を食べて育ちます。
サワガニ 〜 日本でただ一種の淡水に棲むカニで、ハサミはたいてい右のほうが大きいです。めすガニは卵を腹部でかえし、しばらく子ガニを抱いて保護します。
アメリカザリガニ 〜 大正時代の終わり頃、食用ガエルのエサとしてアメリカから渡ってきて、いつのまにか日本中に広がりました。帰化生物のよい例です。
クサガメ 〜 甲らや首の横に黄色いすじが走っています。危険が迫ると足のつけ根からくさい臭いを出すので、この名がつきました。
〔 せせらぎの魚 〕
モツゴ 〜 体長10cm位の小さな魚で、濁った水の中でも住めます。上あごより下あごが突き出ています。別名クチボソといわれるのは、この口があまり大きくあかないためです。
ギンブナ 〜 コイに似ていますが口髭がなく頭も小さいです。銀色をおびているのでこの名があり、キンブナと区別されます。どういう訳か、ギンブナはオスがとても少ないです。
マゴイ 〜 口髭に特徴があり、体長1mに達することもあります。貝類を好み、のどの奥に歯がありそこでかみ砕きます。赤いのはヒゴイといい区別されます。
ドジョウ 〜 泥の中によくもぐります。口のまわりに10本の髭があり、それで餌をさがします。口から空気を飲み込みその中の酸素を腸で利用する「腸呼吸」をします。メスのほうが大きいです。
お願い 〜 これらの魚や水辺の生き物の中には、子供達がせせらぎに放したものも多く、今ではすっかり馴れて元気に育っています。どうか大切にして、あたたかく見守ってあげてください。
〔 三ツ沢の地層 〕
三ツ沢せせらぎ緑道の北側と南側に東西にのびる丘は40から50メートルでほぼ同じ高さです。この二列の丘の地層は同じものであることから、もとはつながっていたひとつの台地だった事がわかります。そして三ツ沢の低地は、この台地が水による浸食作用をうけて形成された部分ということになります。地層が水平方向に縞状に見える部分は、下末吉層で軟らかい砂や粘土と固い泥岩や砂岩が何層にも重なっています。丘の上に降った雨水がしみ込み、下末吉層の水を透さない岩の部分までくると、砂や礫(れき)の層を伝わって崖の表面に出てきます。緑道からは、この絞り水がところどころで見られます。
〔 三ツ沢貝塚 〕
三ツ沢せせらぎ緑道の南側一帯の丘の上に「三ツ沢貝塚」の名で有名な遺跡群があります。三ツ沢貝塚は縄文時代後期から弥生時代にかけて形成されたものですが、特に縄文時代後期が全盛期であったようです。貝塚からは、土器、土偶、石斧(せきふ)、石皿(いしざら)、やじり、釣針、装身具などの
人工遺物のほか、魚、鳥類、シカ、イノシシの骨も発見され、当時の食生活や文化の様相を知ることができます。また、貝塚のほかに人骨や竪穴住居跡も発見されており、大規模な集落があったことをものがたっています。この三ツ沢はその当時、現在の低地部まで海が入り込んでいて、丘の上には約4000年前から人が住んでいたことがわかります。遺跡の研究者の一人であった石野瑛(あきら)氏は、昭和初期に遺跡の規模は翠嵐高校から松が丘までの約600メートルに及び、その幅は三ツ沢東町の北斜面から沢渡の南斜面に及び最大幅は300メートルを超えるもので、貝塚、住居、墓地を伴う大集落であると推測しました。この推測は以後この地区の急速な宅地化に伴い、本格的な発掘調査ができないまま現在に至っていますが、昭和46年に北斜面の雑木林の一部で発掘調査が実施され、膨大な資料を採集することができました。右の写真は、三ツ沢貝塚の出土品の一部で土偶を除く実物は、神奈川県立博物館に所蔵されています。
〔 緑道の新植樹 〕
三ツ沢せせらぎ緑道では、市街地区域で少なくなりつつある斜面緑地を保存するとともに、さらにみどりを豊かにし、季節を様々に彩(いろど)る木々や草花を補植しました。代表的なものをあげてみますと、次のような植物があります。
高木 〜 桂(かつら)・寒緋桜(かんひざくら)・粗樫(あらかし)・花水木(はなみずき)
中木 〜 斑入柾(ふいりまさき)・紅要黐(べにかなめもち)・金木犀(きんもくせい)・山茶花(さざんか)
低木 〜 皐月(さつき)・満天星(どうだん(つつじ))・大紫(おおむらさき)・寒椿(かんつばき)
草花 〜 阿亀笹(おかめざさ)・竜ノ髭(りゅうのひげ)・富貴草(ふっきそう)・射干(しゃが)
〔 桂(かつら) 〕 幹がまっすぐに天に伸びる水辺を好む高木で、端正な円錐形の樹形をつくります。枝に2枚ずつ整然と向かい合ってつくハート形の葉は、秋に美しく黄葉します。
〔 斑入柾(ふりりまさき)〕 柾は海岸近くの林に自生し、生垣によく使われます。葉は質厚で光沢があり、初夏に淡緑色の小さな花が咲き、冬に黄赤色の実をつけます。三ツ沢せせらぎ緑道の柾は、葉のふちに斑(ふ)が入った斑入柾とよばれるものです。
〔 皐月(さつき)〕 皐月は枝が横に伸びる性質があり、高さは1メートル位までの常緑低木です。和名は旧暦の5月(皐月)に花が咲くことに由来しています。花色と花柄が異なる非常にたくさんの園芸種があります。また、同じ木の箇所ごとに花形や花柄が変化することもあり、これを「花芸(はなげい)」と呼びます。
〔 阿亀笹(おかめざさ) 〕 笹の名がついていますが、日本特産種の竹の仲間です。浅草の酉(とり)の市でこの竹におかめの面をつり下げて売ったことから名付けられました。
〔 延命地蔵尊 縁起 〕
徳川第五代将軍綱吉の治世期、延宝(えんぽう)8年(西暦1680年)11月15日、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)三ツ沢村の東口に位置する当地に、その頃流行の悪疫で亡くなった子供の供養と、病魔の退散、村人の健康長寿・生活安穏を祈願して、本地蔵尊は、村の有志により建立されました(建立年月日は、地蔵尊石碑による)。以来、本地蔵尊の御加護と御慈悲を願い求めた村人や、現代の地域の皆さんの厚い信仰心と、祈願成就の報恩・感謝の念に支えられて、今次大戦後の人心の荒廃や、世情激変の社会の中を本地蔵尊は同じこの場所に立ち続けておられまる。この間、三ツ沢村当時から「大地蔵」の呼び名で親しまれていたようですが、昭和23年(1948年)5月、藤沢市遊行寺より「延命地蔵」と正式に命名されました。例大祭は、毎年5月24日中心に開催しております。平成20(2008)年5月 延命地蔵講
〔 愛染地蔵尊 縁起 由来 〕
戦後(1945年)復興の兆しが見え始めた頃、滝の川に漂着していた石仏を地元の染物工場で救い上げお祀りしていたが、大衆の加護をと念じ商店会で譲り受け鑑定の結果、江戸時代の愛染地蔵尊と命名された。御所山妙照寺ご住職によって開眼供養が行われました。ご縁日は毎月1日と16日と定められました。現在は近郊近在よりの参詣者が多く、地蔵尊に真心をこめてご祈願したことが大きなご利益に恵まれたとの実話が数多く残されている。だれしも寿命を全うし開運招福を願い、苦悩生じた時は路傍に佇む石仏の出合いに心の安らぎを求め、このたびここに5月16日落慶式を迎えた。平成10年戌寅歳5月吉日 ガーデン下商店会
〔 寶玉(宝玉)稲荷大明神 由来と名称 〕
江戸末期の頃、滝の川の洪水によって上流から流れついた御神体を石川氏を中心にして地元の人たちがお祀りしたと言い伝えられている。当時この地は宝玉山(現在の栗田谷)と呼ばれ横浜開港当時イギリス領事館に使われた日蓮宗の古刹、淨瀧寺の土地に開き、以来講中の方々によって守られている。毎月、1、15日の稲荷講中と、遠方または地元住民の力添えの信仰に拠って守り伝えられ今日に至っている。2月の初午詣は朱色の鳥居や幟など特徴ある形態を示している。農業神、漁業神、託宣神、憑依神、商業神(商売繁盛の神)、歌舞伎・音曲の神、子宝の神として幅広い性格を有し民衆の信仰を代表する一つである。稲荷の起源は稲荷信仰の総本社とも称すべき伏見稲荷大社の縁起よると(?)711年(和銅4年)2月の初午の創始と伝える「山城国風土記」によれば秦公伊呂具(はたのきみいろこ)が餅を的に矢を射ったところ、餅は白鳥になり降り立った山の峰に稲が生え、神として奉られ「イネナリ」(伊祢奈利)から稲荷の社名になったと言い伝えられている。
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