〔 二ケ領用水(にかりょうようすい)〕 川崎市 2017.12.19
●
スポットへもどる
●
shadowbox
[GitHub]( ※ いくつかのサイトで記事や掲載デモを参考にさせていただきました )
《 スクリプト仕様 》
★ オート設定です。左のサムネイル画像をクリックして下さい。表示時間:5000ms。
★ 表示画面の右下のボタン操作をお願いします。
[
:前へ
:停止 /
:開始
:次へ
:閉じる ]
★
ボタンか背景画面をクリックするとこの画面にもどります。
【 ◆ 解説(用水沿いの解説)】 《 画像クリック拡大表示 》
〔
濱田橋
~ 濱田庄司 ~ 〕 明治27年溝口に生まれる。本名象二。高津小学校に学び東工大を卒業。英国人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸にめざめ、栃木県益子で作陶に入る。益子焼を芸術にまで高めた奥に高津の心があった。柳、河井らと民芸運動を興し沖縄文化等に注目する。日本民芸館二代目館長。昭和30年第一回人間国宝、昭和43年文化勲章、昭和51年川崎市文化賞を受賞。昭和53年死去。83才。少年時代親しんだ七面山麓、宋隆寺に眠る。この濱田先生の偉大な業績を称え、濱田橋と命名した。平成4年6月吉日
〔
二ケ領用水「久地分量樋(くじぶんりょうひ)」跡
〕
久地分量樋は、多摩川から二ケ所で取り入れられ、久地で合流した二ケ領用水の水を、四つの幅に分け、各堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中休愚(きゅうぐ(丘隅))によって作られました。そして、昭和16(1941)年、久地円筒分水の完成により役目を終えました。
〔
鷹匠(たかじょう)橋
~ 川崎歴史ガイド ●二ケ領用水 ~ 〕
江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場(おたかば)があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があった。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされたという。
〔
久地(くじ)の合流点
~ 川崎歴史ガイド ●二ケ領用水 ~ 〕
ここで合流した用水は久地(くじ)の円筒分水(えんとうぶんすい)を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した。現在の許容取水量は一日あたり中野島から約45万トン、宿河原から約35万トン、合計80万トンである。
〔
五ケ村堀(ごかそんぼり)と八幡下(はちまんした)の堰(せき)
~ 川崎歴史ガイド ●二ケ領用水ルート ~ 〕
五ケ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰(せき)方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰(せき)は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰(せき)の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした。
〔
宿河原(しゅくがわら)の桜並木
~ 川崎歴史ガイド ●二ケ領用水 ~ 〕
用水沿いの桜は昭和33年、地元有志の手で植えられた。今では宿河原の取り入れ取り入れ口からおよそ3キロ、両岸に続く400本あまりの桜並木が保存会の人々により守られている。