【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 田越橋と御用邸へのみち 〕 明治22年(1889)に横須賀線が開通し、逗子駅ができると共に、気候温暖、風光明媚な保養の適地として逗子・葉山に多くの人が訪れ、住むようになりました。現富士見橋のあたりに架かっていた橋はその昔、田越橋と呼ばれ、三浦半島への重要な橋でした。明治17年に流失したため、渡し舟でつなぐ一方、代わりの橋がここに架けられ、田越橋と呼ばれたようです。明治27年(1894)、葉山に御用邸が建てられました。当時、天皇は逗子駅からこの田越橋をわたり、鐙摺(あぶずり)を経て海岸沿いに葉山御用邸に向かわれました。婦人会や小中学生などが沿道でお出迎えしたと言われています。その後、桜山、葉山の両隧道が開削され、昭和6年(1931)御用邸に直線的につながる「行幸道路」が出来ました。 逗子市・自然の回廊プロジェクト
〔 蘆花記念公園 〕 風致公園(一部条例公園):面積約 4.3ha
逗子海岸地域は、明治以降名士の別荘地帯として脚光を浴びてきた逗子市の中心地で、その名残を現代に伝える近代和風建築やその庭園が残されています。
《 旧脇村邸 》 建物は昭和9年(1934)に木造二階建て和洋折衷様式の数寄屋造りの別荘として建てられました。「逗子市景観重要建造物」 ※ 現在は外観のみご覧いただけます。
《 郷土資料館(有料施設)》 建物は大正元年(1912)頃に建てられた木造平屋建てで、現在は徳富蘆花をはじめとする逗子にゆかりのある文学者の文学資料などが展示されています。 ※ 休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
《 第一・第二休憩所 》 建物の築年数は不詳で木造平屋建て2棟が休憩所として使われています。
※ 施設利用にあたっては事前登録等の手続きが必要です。 ※ 詳細は逗子市緑政課にお問い合わせ下さい。
〔 国指定史跡 長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群 第二号墳 〕
四世紀後半(約1600年前・古墳時代前期)に造られた、県内最大級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。逗子市と葉山町にまたがる丘陵上にあって、墳丘の長さは約88m、前方部を西に向けており、残存状態は総じて良好です。これまでごく小規模な発掘調査しか行っていませんが、第一号墳と同様に、自然の山を削って成形した上に、盛り土をして築いたものと思われます。段築(だんちく)の有無についても明らかではありませんが、南関東の前期古墳では珍しい葺石(ふきいし/装飾・補強するため斜面に貼りつける石)が設けられているのが特徴です(第一号墳にはありません)。周辺からは円筒埴輪(えんとうはにわ)や壺形埴輪(つぼがたはにわ)の破片が出土していますので、埴輪列(はにわれつ)があったと思われます。埋葬施設の位置や構造、規模などは明らかになっていません。 逗子市・自然の回廊プロジェクト
〔 国指定史跡 長柄桜山古墳群 第二号墳 〕
平成14年12月19日 指定 文部科学省 葉山町教育委員会・逗子市教育委員会
平成16年2月27日 設置
〔 国指定史跡 長柄桜山古墳群 第2号墳 平成14年12月19日 指定 〕
《 発見 》 平成11年(1999年)3月に第1号墳が発見されてほどなく、県内の考古学研究者からこの山も古墳ではないかと指摘され、同年6月に神奈川県教育委員会が試掘調査を行った結果、古墳と確認されました。
《 規模と形状 》 第2号墳は逗子市と葉山町の境界線上にあり、全体の長さ約88m、後円部の直径約54m、墳頂部の標高はちょうど100m。4世紀後半(約1,600年前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存する古墳としては第1号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査はごく一部しか行われていませんが、円筒形や壷形の埴輪が立てられていたこと、墳丘の斜面がこぶし大ほどの葺石(ふきいし)で覆われていることなどがわかっています。埴輪と葺石の両方をもつ前期古墳は、南関東では初めて確認された貴重なものです。
《 被葬者 》 当時この付近で活躍した有力者で、畿内(きない)とも関係のあった人物が葬られている可能性が考えられますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
《 重要性 》 三浦半島西岸に位置する逗子・葉山付近は、太平洋側の交通の要だったと考えられます。第2号墳から西を見れば、相模湾に浮かぶ江ノ島をはじめ、大山や富士山が一望できます。この地に築かれた長柄桜山古墳群は、当時の関東と畿内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
《 今後 》 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って発掘調査を実施し、整備していく予定です。
〔 国指定史跡 長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群 第一号墳 〕
四世紀後半(約1600年前・古墳時代前期)に造られた、逗子市と葉山町にまたがる丘陵上にある県内最大級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。墳丘の長さは約90mで、山を削って成形した上に約1.5m盛り土をして築いています。後円部は三段、前方部は二段の段築(だんちく/斜面に段を設ける構造)になっていますが、第二号墳のような葺石(ふきいし)はありません。後円部の中央やや東よりに、幅約1.6m、長さ約7mの陥没坑(かんぼつこう/埋められた木棺(もっかん)が腐って地面が沈んだ窪み)があり、その約1.5m下に粘土槨(ねんどかく/棺を粘土でおおった埋葬施設)が一基あることがわかっていますが、内部は調査していないため、副葬品などは未確認です。周辺からは円筒埴輪(えんとうはにわ)や壺形(つぼがた)埴輪の破片が数多く出土し、後円部の墳頂部には埋葬施設を囲うように埴輪が列をなして並べられていたことがわかっています。 逗子市・自然の回廊プロジェクト
〔 国指定史跡 長柄桜山古墳群 第1号墳 平成14年12月19日 指定 〕
《 発見 》 平成11年(1999年)3月、地元の考古学愛好家 東家洋之助(とうやようのすけ)さんが、携帯電話アンテナ工事のために伐採整地された山頂で埴輪の破片を発見し、古墳であることがわかりました。
《 規模と形状 》 第1号墳は逗子市と葉山町の境界線上にあり、全体の長さ約90m、後円部の直径約51m、墳頂部の標高は127mです。4世紀後半(約1600年前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存するものとしては第2号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査の結果、自然の山を削った後に盛り土をして造られたこと、前方部2段、後円部3段の段築(だんちく)を有すること、古墳の上に円筒形や壷形の埴輪が立てられていたことなどがわかっています。第2号墳のような葺石(ふきいし)は確認されていません。
《 被葬者 》 発掘調査によって、後円部に粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる埋葬施設が1基存在することが確認されました。当時この付近で活躍した有力者で、畿内(きない)とも関係のあった人物が葬られている可能性が考えられますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
《 重要性 》 三浦半島西岸に位置する逗子葉山付近は、太平洋側の交通の要だったと考えられています。第1号墳から東には、東京湾や房総半島を望むことができます。この地に築かれた長柄桜山古墳群は、当時の関東と畿内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
《 今後 》 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って古墳が将来にわたって末永く保存されるように整備していく予定です。
〔 六代御前の墳墓の由来 昭和36年1月吉日 〕 「六代御前墓」と彫りたる小碑は徳川幕府の末年 水戸藩士齋田三左衛門の建てしものにして是れ六代御前の墳墓なり。安ずるに六代御前は、桓武天皇十五代の後胤(こういん)にして三位中将平維盛の嫡男小松内府重盛の嫡孫平相國清盛の曾孫なり。榮華を極めたる平家全盛時代に生まれ、一門没落の際、母と共に京洛菖蒲谷に匿(かく)れ潜みしが、文治元年北條時政に因( ※「囚」の間違いと思われる)へられ東下して駿河の千本松原に至り将に斬首に逢はんとせる際、さきに文覺上人の懇請に由りたる将軍源頼朝の赦免状到着によりて放免せられ文覺上人に伴はれて雄山洛西神護寺に入り剃髪(ていはつ)して妙覺と曰い三位禪と呼ばれ専心佛道を修めたり。建久五年、六代御前の妙覺は文覺上人の添書(てんしょ)を齎(もた)らして鎌倉に赴き、大江廣元に就きて情を陳べ恩を謝せしに、頼朝も深く重盛の舊恩を追懐し厚く之を待遇したり。然るに正治元年文覺上人不軌(ふき)を圖(はか)り、発覚して流罪に問はるるや六代御前の妙覺も捕へられて関東に送られ田越川の畔(ほとり)に於いて処刑せられたり。行年二十有六、村民深く之を憐み、遺骸を収めて川の邊に葬り墳墓を築き常に香華を捧げて供養を懈(おこた)らず以て現今に至れり。田越川を御最後川と思ふは之に原づけり。嗚呼、六代御前は綾(あや)に畏(か)しこき皇胤にして平家の嫡統なるも時運非にして一門の凋落に逢い一度縲紲(るいせつ)斧钁を免れて佛法三昧に入りしも復罪なき罪に問はれて田越川邊の露と消えたる。誰かは同情の涙を揮(ふる)はざる。星移り物換はりて茲(ここ)に七百年。逗子の浦風今も悲を含み田越川の流 猶 咽ぶに似たり。有志者あい謀り其の墳墓を修理し、其の蛍域を拡張し、其の遺跡を明にし、其の寃魂(えんこん)を慰め併せて地方仁厚の美風を永久に傳へんとす。こいねがわくは江湖(こうこ)諸彦(しょげん)幸に賛助せられんことを。
〔 逗子市指定史跡 六代御前の墓伝説地 指定年月日:昭和53年2月21日 〕
六代御前は平維盛(たいらのこれもり)の嫡男(ちゃくなん)で、文治元年(1185)平家滅亡の時、捕らえられて処刑されるところ、文覚(もんがく)上人のおかげで助けられました。その後文覚の弟子となり、名も三位(さんみ)の禅師と改め、平安の日々を送りましたが、正治元年(1199)源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなると、再び捕らえられることになりました(異説もあります)。平家物語には、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。頭をば剃(そ)ったりとも、心をばよも剃らじとて、鎌倉殿より頻(しきり)に申されければ、安判官(あんほうがん)資兼(すけかね)に仰(おおせ)て召捕って、関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱(おかべごんのかみ やすつな)に仰て、田越川にて斬られてんげり。」と記されています。桜山柳作(やなぎさく)のこの岡が六代御前の墓とされています。 平成21年3月 逗子市教育委員会
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