【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 南加瀬貝塚 〕 川崎歴史ガイド ● 夢見ヶ崎と鹿島田ルート
関東地方では珍しい弥生時代の貝塚で、出土した土器はわが国における縄文、弥生時代を区分する最初の標識土器として重視された。明治末、大規模工場地の造成にここの土砂が使われた。
〔 太田道灌公碑 〕
此の地 加瀬山にて江戸城を築かんと思案するが完成を見ず
〔 夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳群 〕
〜 加瀬台古墳群(かせだいこふんぐん) 〜
〔 加瀬台古墳群(かせだいこふんぐん)〕
多摩川低地へと突き出した夢見ヶ崎の細長い丘陵(通称「加瀬山」)には、加瀬台古墳群があり、湮滅(いんめつ)したものを含め、11基の古墳が確認されています(隣りの解説板「夢見ヶ崎動物公園周辺の 古墳群」参照)。そのなかでも白山古墳(はくさんこふん)は、4世紀後半に築造された、川崎市内最大となる全長87mの前方後円墳です。本古墳群の中で最古の古墳と考えれています。白山古墳の後円部の木炭槨(もくたんかく)(棺の周囲を木炭で包んだ埋葬設備)から発見された三角縁神獣鏡(さんかくえん(ぶち)しんじゅうきょう)は、初期のヤマト政権からこの古墳の被葬者に分け与えられたものと考えられる歴史的に貴重な鏡です。白山古墳の西隣りには、7世紀代に築造された第六天古墳(だいろくてんこふん)が位置していました。墳丘径19mの円墳(えんぷん)で、横穴式石室からは、勾玉(まがたま)・金銅製鈴等の副葬品とともに、11体もの人骨が発見されました。両古墳とも、昭和12(1937)年に慶應義塾大学によって発掘調査された後に開発によって削られ、現在は見ることができません。このほか、夢見ヶ崎動物公園周辺には、7世紀中頃の築造と考えられる加瀬台3号墳や、2面の中国鏡(ちゅうごくきょう)と鉄斧(てっぷ)等が出土した4号墳、方墳(ほうふん)の8号墳、横穴式石室を内部主体とする9号墳など、7基の古墳が現存しています。こうした遺跡等は貴重な文化財であり、今後も守っていけるよう、皆様の御理解と御協力をお願いします。令和2年1月 川崎市教育委員会
〔 了源寺(りょうげんじ)と五兵衛の墓 〕 川崎歴史ガイド ● 夢見ヶ崎と鹿島田ルート
境内には赤穂浪士の隠れ家の主、軽部五兵衛(かるべごへえ)の墓がある。軽部家は現在の称名寺の向かいにあった。元禄15(1702)年12月、軽部家は吉良邸討ち入りの際、足がかりとなった。
〔 白山古墳 ・ 加瀬台7号古墳 〕
白山古墳と加瀬台7号古墳は、公園周辺に築造されていたものです。白山古墳は、前方後円墳で全長87m、後円部直径42m、加瀬台7号古墳は円形古墳で直径30mの大きさがあったそうです。広場内には原寸大で表現されています。
《 古墳をたどる手がかり 》 広場の中に配置されている石柱、ヤマモミジ、板石貼りをたどっていくとはるか昔につくられた古墳の形状を体感することができます。石柱には順を追って歩けるように「い」「ろ」「は」… が記されています。
〔 タカラモノを探そう ! きみも日吉の探検隊 〕
《 加瀬山は島だった 》 今から6000年くらい前、加瀬山の周辺には海が広がっていました。気温が今より年平均で2度ほど高かったため、海面も今より4〜5メートルぐらい高かったようです。このことを縄文海進(じょうもんかい しん)といいます。加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島のようでした。加瀬山の東がわのふもとでは貝塚が発見され、その頃このあたりで人間が暮らしていたことがわかります。この貝塚は縄文時代と次の弥生時代の貝が層になっていたため、古代から人間が生活していたことを知る手がかりとなる歴史的に重要な貝塚となっています。
《 秋草文壷(あきくさもんつぼ) 》 平安時代に骨を納めるために使われていました。地(ぢ)は灰色で、肩に厚くオリーブ色のうわぐすりがかかっています。とても貴重な工芸美術品として、市内でも初めての国宝となりました。壷の胴に秋草(ススキ・ウリ・ヤナギ・ハギ)がきざまれているので秋草文壷と言われています。現在の愛知県渥美半島で作られた壷で、渥美焼(あつみや)きと呼ばれています。1942年に南加瀬2丁目から出土したものです。
《 夢見ヶ崎動物公園と加瀬山の自然 》 夢見ヶ崎動物公園は標高35メートルの通称「加瀬山」と呼ばれて親しまれている丘の上にあります。春の桜から始まり、ケヤキの新緑とツツジの彩り、秋の紅葉、冬の椿へと移り変わっていく豊かな自然は、野鳥や昆虫の楽園でもあります。この動物公園の始まりは、川崎市が政令指定都市となった1972年、その記念事業のひとつとして、動物コーナーを設けたことです。その後、1974年4月に「夢見ヶ崎動物公園」の名前になりました。現在65種400点の動物たちがみられる市内唯一の動物園です。
《 加瀬山に古墳 》 むかし、加瀬山とその近くには、11基の古墳がありました。古墳はむかしの人のお墓で、当時は全ての人が古墳に埋葬されたわけではなく、豪族や首長(しゅちょう)といってリーダーのような人が埋葬されたと考えられています。白山古墳(前方後円墳)、第六天古墳(円墳(えんふん))は今は残っていませんが、公園内には今も7基が残っています。古墳からは、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や鉄斧(てつおの)・勾玉(まがたま)・金銅製鈴(こんどうせいすず)などの副葬品や遺骨も発見されました。
《 太田道灌の夢の跡 》 加瀬山が「夢見ヶ崎」と呼ばれるようになったのは、室町後期の武将太田道灌が見た夢に由来しているそうです。見晴らしのよいこの地に城を築こうと陣を敷いた晩、一羽の鷲が自分の兜を持ち去る夢を見たことから、築城をあきらめたと言い伝えられています。今も公園の東端(とうたん)にある9号古墳に八幡宮があり、横浜市駒岡には兜を埋めたといわれる兜塚(かぶとづか)の碑があります。500年以上も前の言い伝えが、動物公園の名として残っているのです。
《 鶴見川と矢上川(やがみがわ) 》 日吉地区の南がわを鶴見川、西がわを矢上川が流れています。降った雨が川に集まる範囲を流域といい、日吉地区は鶴見川流域になります。鶴見川の源流は町田市小山田、河口は横浜市鶴見区生麦で、長さ約42.5km。矢上川の源流は川崎市宮前区犬蔵(いぬくら)、幸区南加瀬で鶴見川に合流する長さ約13kmの川です。鶴見川は「暴れ川」と呼ばれ、1975年ぐらいまでは、よく氾濫した川でした。
〔 白山古墳(はくさんこふん) ・ 秋草文壺(あきくさもんつぼ)( 国宝 )〕
《 白山古墳 》 白山古墳は、古墳時代前期の4世紀後半に築造された前方後円墳です。前方後円墳は、方形と円形の墳丘が組み合わさった形をしていて、近畿地方の勢力との関係をしめすものだと考えられてい ます。昭和12年に慶應義塾大学によって発掘されました。副葬品としては、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)をふくむ5面の鏡と、鉄刀(てっとう)・鉄剣(てつけん)のほか鉄鏃(てつぞく)、鉄製農耕具(てつせいのうこうぐ)、勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉(こだま)などの装身具類が出土しました。この展望台の西側正面に位置する山が、土取(つちと)りで消滅した白山古墳の跡地です。(展望台のベンチは、円墳や方墳をイメージして作ってあります)
《 秋草文壺( 国宝 )》 秋草文壷は、昭和17年に白山古墳の後円部下方から出土しました。高さが40.5センチあり、火葬した骨を納めた蔵骨器(ぞうこつき)として使用されていました。平安時代の末、12世紀に焼かれたもので、ススキ・ウリ・柳・トンボなどが流麗な筆致で描かれています。日本陶器史上の優品です。
〔 富士見デッキからの眺め 〕
晴れた日には富士山をはじめとして、丹沢や秩父の山並みが望めます。
〔 山吹の花と加瀬山 〕
夢見ヶ崎公園一帯は、古くから「加瀬山」の名で親しまれており、山吹の花にまつわる言い伝えががります。昔、太田道灌がにわか雨に困って、武蔵野のあるわびしい家で笠を借りようとしたところ、家の娘が山吹の花を差し出 しました。それは、「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌に掛けて、八重山吹の花に実ができないことと、(貧しくて)貸すべき蓑(みの)がないことを奥ゆかしく表現したものでした。そのことを後で知った道灌は、古歌を知らなかったことを恥じて、以降は勉学に励んだといわれています。春になると、加瀬山は桜とともに、山吹が満開になります。幸区は、2012年8月1日に山吹を区の花として制定しました。
〔 加瀬山は歴史の宝庫 〕
加瀬山には、地層の様子から、縄文時代が弥生時代より古いことを明らかにした南加瀬貝塚がありました。また、大小さまざまな古墳も見つかっています。現在も6基の古墳が残っており、土器や石器などが出土しています。さら に、戦国大名で小田原北条氏四代目氏政(うじまさ)が社殿を造営したと伝えられている天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)や、五代目氏直(うじなお)が創建したと伝えられている熊野神社、赤穂浪士を匿(かくま)ったという軽部五兵衛(かるべごへえ)の墓(了源寺境内)があるなど、加瀬山は歴史豊かな場所となっています。
〔 太田道灌(1432年〜1486年)〕
室町時代の武将で、関東の武将の中でも都の文人とも引けを取らぬ文化人であり、名を資長(すけなが)と言いました。太田道灌は、扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)に仕えて上杉定正(さだまさ)の執事を務め、25歳 (1457年)の時に江戸城を築きました。夢見ヶ崎には、太田道灌が築城する場所を探しに訪れたと言われています。その後、道灌は上杉氏を支えて関東地域の平定(へいてい)に従事しました。
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