金沢山(かなざわやま)〕 横浜市金沢区 2020.12.15  mbufung[jQueryScript.net]  ● 山のページへもどる

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山の名称について
 「金沢山」の読み方について、新聞記事では「金沢山(かなざわやま)/標高 76m」と記載されていたり、また、インターネット上の登山家の方のブログや山関連のサイトで「金沢山(きんたくさん)/標高 76m」と記載されているのを見かけます。称名寺にある山なので「金沢山(きんたくさん)称名寺」の山号から「きんたくさん」の読み方が出てきたように思われます。どう読むのか疑問に思っていたところ、公的機関のホームページに「問い合わせメール」のリンクが張ってあったので問い合わせてみました。「山号として『金沢山 称名寺』のように記載されている場合は『きんたくさん』と読み、単体(単独の山)として記載されている場合は『かなざわやま』と読み慣わしています」との回答を得ました。山頂には祠(ほこら)と八角堂がありますが、八角堂広場に「金沢山(かなざわやま)・標高 76m」のような標柱や山頂表示板を設置すると、読み方のばらつきや誤解を避けられるのではないかと思います(「案内図」参照 )。
解説 】    ※ 画像クリック拡大表示
#1-1〔 金沢(かねさわ)北条一門の墓 北条実時(ほうじょうさねとき)の墓 〕 北条実時(1224〜1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時の孫で、貞応(じょうおう)3年に実泰(さねやす)の子として生まれました。実時は、引付衆(ひきつけしゅう)や評定衆(ひょうじょうしゅう)など幕府の要職を歴任し、文永(ぶんえい)3年(1275)には越訴奉行(おっそぶぎょう)をつとめています。政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業(べつぎょう)を開き、金沢文庫の礎を築きました。墓地内中央の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔(ごりんとう)は一門の墓といわれています。また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。
 平成7年3月31日 横浜市教育委員会

#2-1〔 国指定史跡 称名寺境内 〕 大正11年10月12日指定/追加 昭和47年1月31日指定(史跡面積 155.245u)
 称名寺(しょうみょうじ)は、金沢山(きんたくさん)称名寺と号し、真言律宗(りっしゅう)の別格本山として西大寺末の律院(りついん)で、本尊には木造弥勒菩薩立像(みろくぼさつりゅうぞう)(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。本寺は、金沢北条(かねさわほうじょう)氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉(しょうか)2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(さねとき)(1224〜1276)が、六浦荘(むつらのしょう)金沢の居館内に営んだ持仏堂(じぶつどう)から発したと推定されています。その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍(がらん)の整備が着手され、実時の子、顕時(あきとき)(1248〜1301)の時代には、弥勒堂(みろくどう)、護摩堂(ごまどう)、三重塔(さんじゅうのとう)などが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(さだあき)(1278〜1333)は伽藍の再造営を行い、元亨(げんこう)3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(らいごういたえ/重要文化財)に荘厳された金堂(こんどう)を始め、講堂(こうどう)、仁王門(におうもん)など、七堂(しちどう)伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅(じょうどまんだら)にもとづく伽藍を完成させました。しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。
 ( ◎ 史跡内の主な建造物 《 省略 》) 平成6年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会

#3-1称名寺庭園 〕 称名寺の庭園は、元亨(げんこう)3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記(けっかいき)」によって、伽藍(がらん)の配置と共に完成時の姿を知ることができます。庭園は、金沢貞顕(さだあき)の時代の文保(ぶんぽ)3年(1319)から、翌年の元応(げんおう)2年にかけて造られました。作庭には性一法師(しょういつほうし)が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石(けいせき)を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅(まんだら)の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。
 平成5年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会

#41-1称名寺塔頭光明院表門(しょうみょうじ たっちゅう こうみょういん おもてもん)〕 横浜市指定有形文化財(建造物) 平成4年11月1日 指定
構造及び形式:四脚門、切妻造(きりづまづくり)茅葺(かやぶき)、袖塀付(そでべいつき)/ 時代:寛文5年(1665)
光明院は、称名寺の塔頭のひとつで、「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」に「光明院、仁王門に向って左にあり、五院の第一臈(ろう)なり、本尊地蔵春日(はるひ)の作なり」とあり、江戸時代後期には、五つの塔頭の一位を占めていました。この表門は、小規模な四脚門ですが、和洋を基調に禅宗様を加味した意匠をなっています。また、市外から近年移築された三溪園の建造物などを別にすれば、造営年代が判明する市内の建造物のなかで最も古く、極めて貴重です。平成5年3月 横浜市教育委員会

#5-1〔 国指定史跡 称名寺境内
指定:大正11(1922)年10月12日 63.956u / 追加指定:昭和47(1972)年11月3日 91.289u / 管理団体:横浜市
金沢山称名寺(きんたくさん しょうみょうじ)は、13世紀半ばに創建された金沢北条(かねさわほうじょう)氏一門の菩提寺で、「木造(もくぞう)弥勒菩薩(みろくぼさつ)立像(りゅうぞう)」(鎌倉時代、重要文化財)を本尊としています。もとは、鎌倉幕府の重臣北条実時(さねとき)(1224〜1276)が邸宅内に設けた阿弥陀堂から始まったと言われ、初めは念仏の寺でしたが、のち真言律宗に改められました。二代顕時(あきとき)(1248〜1301)が受け継ぎ、三代貞顕(さだあき)(1278〜1333)の時代に大規模な造営が行われました。元亨(げんこう)3(1323)年「称名寺絵図」(重要文化財)には、苑池のまわりに七堂伽藍を配置した最盛期の称名寺の様子が描かれています。また、寺に隣接して設置された文庫には、貴重な文物が収集されていました。その一部は、寺と神奈川県立金沢文庫に継承されています。大正11(1922)年、「称名寺絵図」に描かれた結界域と歴代金沢氏・住職の墓域が、ついで昭和47(1972)年には背後の山稜部や惣門付近が国の史跡に指定されました。平成25年3月 神奈川県教育委員会 横浜市教育委員会