〔 浅間山(せんげんやま/平塚 )〕 平塚市 2020.11.17 [ 日本山名事典: ] ● skdslider ● 山のページへもどる

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#1-1善兵衛(ぜんべえ)池 〕 この辺りは水が乏しく荒れた山田であった。土地で人望があった善兵衛はその困窮を聞いて農地の開発を志しすべて自分で事業を行った。1,600人の労力をかけて東西 24m、南北 16m、深さ 4、5mの用水池をつくり、水利を整えて2年後に立派な良田とすることが出来た。1819年(文政2年)この功を賞して老中から白銀5枚がおくられ苗字帯刀を許され三宅姓を名乗った。池畔の石碑はその記念に建てられた。後に二宮金次郎もこの事蹟を調査したことがある。池のある宝山周辺は当時の景観がよく保存されている。土手の両側にある善兵衛池横穴群は大磯に多くある横穴群のひとつである。

#2-1〔 日本山岳界の先駆者 岡野金次郎 〕 岡野金次郎は明治7年(1874年)、現在の横浜市保土ヶ谷区で生まれました。後に日本山岳会初代会長となる小島烏水(うすい)とは、明治27年の徴兵検査で出会いました。明治35年(1902年)、岡野と小島は日本人登山家として初めて槍ヶ岳への登頂を果たしました。その翌年、岡野らは自分たちより前に槍ヶ岳に登ったウォルター・ウェストンと出会い、日本にも山岳会をつくることを勧められます。これが日本山岳会の設立につながりました。昭和15年(1940年)、平塚に移り住んだ岡野は、昭和20年に戦災に遭い、平塚を離れますが、昭和28年には再び平塚に戻ります。そして、昭和33年に亡くなるまで、平塚に住み続けました。富士山が好きだった岡野は、散歩に出かけては平塚海岸や八幡山から富士山を眺めていたといわれます。
 平成17年(2005年)3月 平塚市

#3-1浅間社(せんげんやしろ)〕 江戸時代、雲をぬいて天高くそびえる富士山を神とした浅間信仰(せんげんしんこう)が広まりました。白い衣装をまとい、口々に「懺悔懺悔(ざんげざんげ)、六根清浄(ろっこんせいじょう)」と唱えながら登る。六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意のことで、「六根清浄」が登山の精神であり、富士山は信仰登山のあこがれでした。しかし、富士登山は費用と日数がかかり、女人禁制(にょにんきんせい)でもあったため、浅間社を富士山の見える高台や山頂にまつり、そこにお参りすることにより願いが富士山に通じると、庶民の間にひろまり厚い信仰を集めました。浅間社は木花佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)を主神とし、美しい富士山を桜の花にたとえた名前と伝えられ、浅間社を祀(まつ)った山であることから浅間山と呼ばれるようになりました。
 環境省・神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課(046)248-0323
#4-1八俵山(はっぴょうやま)標高 160m 〕 八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も西側に位置する峰で、“八俵”は仏教用語の八表(隅の意味)から転じたと考えられます。古くは毘沙門堂がここに建てられていた、と記録されています。
#5-1大磯高麗山の自然林 〕 神奈川県指定天然記念物(昭和47年3月31日指定)
 大磯丘陵の東端に位置する高麗山(こまやま)は、標高わずか150メートルにすぎないが、相模川の広い沖積平野に接し、特徴的な景観で古くから親しまれている。この南面は、シイやタブを主とした常緑広葉樹で構成される沿海性の自然林におおわれている。山腹斜面は土壌が浅く、アラカシやウラジロガシを多く混生したスダジイ林が発達し、一方、谷部のように土壌が厚くて適湿、富養な立地では、タブノキ・イロハモミジなどが高木層を形成するタブ林が見られる。いずれの林内にもネズミモチ・ヤブツバキ・アオキなどの常緑樹が豊富に生育し、また分布北限域となるモクレイシは注目される。県内にわずかに残されたヤブツバキクラス域の自然林としては、林分面積が充分に確保され、自然度も高い良質な森林として貴重であるばかりか、東海道線沿いに見事な常緑広葉樹林が展望できるのも珍しい。学術的な立場からも、郷土の森としても、さらに景観的な意味からも、指定天然記念物として保護するものである。神奈川県教育委員会

#6-1〔 高麗山 標高 167.3m 高麗(こま)と若光(じゃくこう)〕 昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模国(さがみのくに)をはじめ東国七州の高麗人(こまじん)を武蔵国(むさしのくに)に移して高麗郡(こまこうり)をおいたと「続日本紀(しょくにほんき)」には書かれています。奈良時代のころ高句麗(こうくり)は唐(とう)・新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多くその中に高句麗王族のひとり高麗若光(こまじゃくこう)もいました。若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂(けわいざか)あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。 環境省・神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課(046)248-0323

#7-1高来(たかく)神社(高麗寺 こうらいじ)略縁起 〕  ( 高麗寺領境内 見取り図 《 省略 》)
古代 〜 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されてきました。
創始 〜 神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓(さんかん)を討った後に、高麗山(こまやま)の上に神皇産霊神
(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみのわこう(高麗権現 こまごんげん))を遷(うつ)し祀(まつ)り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神(おうじん)天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀(せんし)されております。
若光渡来 〜 天智(てんじ)7年(668)高句麗(こうくり)国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗(こま)に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀(れいき)2年(716)大磯を始め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡(むさしのくに こまぐん)に移され開発を命ぜられました。
高麗寺(こうらいじ)の創建 〜 養老(ようろう)元年(717)僧行基(ぎょうき)がこの地を訪ね、大磯の照ヶ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し、本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合(しゅうごう)の聖地となり鶏足山(けいそくざん)高麗寺を別当寺とし長く信仰されてきました。
中世 〜 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け、相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊(そうぼう)が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け、白山(はくさん)社・毘沙門(びしゃもん)三重塔など多くの伽藍(がらん)、寺宝が消失されました。
江戸期 〜 天正(てんしょう)19年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永(かんえい)11年(1634)東照権現(とうしょうごんげん)(徳川家康)が勧請(かんじょう)されました。そして天海僧上(てんかいそうじょう)より寺十三条掟書(おきてしょ)を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠(かご)から降りて高麗寺の大鳥居前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代 〜 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治30年に高来(たかく)神社と改称されました。現在旧観音堂(下社)に遷座(せんざ)されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(けいがくいん)に安置されました。高来神社は古来より高麗(こま)、大磯の鎮守神(ちんじゅのかみ)として地域住民の平和と安全を御守護されています。
祭神 〜 神皇産霊神(かみむすびのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)
祭礼 〜 春季例祭:家康の命日、山神輿の渡御外(大磯町無形民族文化財 4月)
    夏季例大祭:御船祭 照ヶ崎海岸の神事斉行(大磯町無形民族文化財 7月)

#8-1 #8-2高来(たかく)神社のシイニッケイ大磯町指定史跡名勝天然記念物(昭和48年7月20日指定)
 町の天然記念物に指定されている高来神社のシイ・ニッケイは、スダジイとヤブニッケイの2種が一体化した樹木です。幹の心材が腐朽し、頂上部が凹状になったスダジイの古木にヤブニッケイが根付き生長した結果、現在のような樹形になったと考えられます。樹齢は幹下部のスダジイが300年以上、幹上部のヤブニッケイが150年前後と推定されています。全国各地で様々な合体木が見られますが、違和感無く一本化したものは珍しく、貴重なものといえます。平成22年3月 大磯町教育委員会