〔 見晴らし山(本牧山頂公園)〕 横浜市中区 2020.11.10 ● Nivo Lightbox[jQueryScript.net] ● 山のページへもどる |
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〔 平台貝塚 横浜市中区本牧緑が丘37 〕 平台貝塚は、横浜市域の外縁部をとりまく下末吉台地の東端にあたり、東京湾に小さく突出した“本牧岬”の標高約 45mの台地上にある、縄文時代前期(BC 4,000年頃)に形成された純鹹(じゅんかん)水産の貝塚です。発掘調査によって、縄文時代前期の初め頃より貝の採捕・投棄が始まり、引き続いて前期の中頃にかけて形成された貝層は、厚さ80cmにも達する純貝層であることがわかりました。貝の種類は、巻き貝ではアカニシ、二枚貝ではイタボガキ・アサリ・ハマグリなどです。また、貝塚からは土器・石器・貝・骨製品と共に、スズキ・クロダイなどの魚骨、イノシシ・シカ・イルカなどの獣骨類も発見されました。貝塚は、現在この地の道路面下から県立緑が丘高校南門にかけて一部が残されています。 平成20年8月 横浜市教育委員会 〔 日米桜交流100周年「友好の木」ハナミズキ 〕 このたび、米国政府から横浜市に「友好の木」ハナミズキ 100本が寄贈され、ここ本牧山頂公園に植樹しました。これは、明治45(1912)年に日本からワシントンに友好の桜が贈られて100年を迎えたことを記念し、米国からの「返礼」として、横浜にプレゼントされたものです。横浜は桜寄贈と歴史的はつながりが深く、寄贈の提唱者である米国人紀行作家エライザ・R・シドモアさんは、かつて横浜に滞在していました。また、当時桜は、横浜港を船で出発し米国に旅立っていきました。本牧山頂公園は、平成14(2002)年にワシントンDCから里帰りした桜から増やした苗木が植樹されるなど日米の桜交流ゆかりの場所で、今回日米友好の新たなシンボルとしてハナミズキを迎えました。平成25年3月 横浜市 〔 〜 ドライ・バレル 消火栓 〜 本牧山頂公園の歴史 〕 戦後、米軍接収地のこの場所にあった消火栓を保存したものです。消火栓を使用していない時には、内部の水がなくなり空になるため、ドライバレルタイプと呼ばれます。また、暖色系の色は放水量が少ないタイプを表しています。 [ ※ この消火栓は現在使えません/写真:2008年当時(塗り替え前)] 〔 横浜緋桜(よこはまひざくら/原木 げんぼく) 横浜中区70年 〕 これは横浜緋桜の原木です。中区制70周年を記念して植樹されました。横浜緋桜は、市内港北区の桜愛好家 白井勲氏が長年にわたり研究を続け、寒緋桜(かんひざくら)と兼六園熊谷桜(くまがいざくら)との交配により1970年代初頭に作り出した品種です。他の品種に比べ花の数が多く、葉が出る前に開花します。また、濃い鮮やかな紅色(べにいろ)が特徴です。開花時期は、4月上旬です。 原木:品種登録された最初の木です/寄贈者:白井勲氏 平成9年11月/説明板:中区制70周年記念事業実行委員会寄贈 〔 下村観山先生 顕彰碑 〕 《 記 》 日本画の巨匠 下村観山は岡倉天心、横山大観とともに日本美術院創立者であり、大正2年(1913年)原 三渓の招きで、ここ和田山にアトリエを構えた。当時は、白帆の舟が行き交う本牧の海を望む景勝の丘で、国の重要文化財に指定された代表作『弱法師』(よろぼし)などを描いている。昭和5年(1930年)57才で死去。 平成10年(19980年)3月 下村観山先生顕彰碑建立実行委員会 |