【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 海蔵寺 〕 この寺は宝珠山と号し、曹洞宗下総国通幻派総寧寺の末で、嘉吉元年(1441)小田原城主大森氏によって建立された。開山は大森氏の一族 安叟宗楞(あんそう そうりょう)禅師で、曹洞宗小田原三山の一つに数えられる名刹である。本堂前の赤肌の常緑樹は「ビラン樹」である。この木は成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。〔別に この近くに国指定天然記念物「早川のビランジュ」がある〕 寺内山の手の墓地に、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに参戦した豊臣方の大名、堀左衛門督秀政(越前北ノ庄18万石)の墓がある。堀秀政は、秀吉の小田原攻めに参戦して、北条氏の本拠である小田原本城攻囲中の五月、病に冒されて同月27日、早川の陣中で38歳の若さで病没し、当寺に埋葬された。なを秀政は、当寺の中興開基となっている。
《 石垣山に参陣した武将たち 小田原市観光課 》
〔 堀 秀政(ほり ひでまさ) 天文22年(1553)〜天正18年(1590)〕 美濃の豪族堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の伊賀攻めの年、近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前・加賀に十八万石の領土を与えられて北庄城に入り、北国支配の中心となった。小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。
〔 石垣山に参陣した武将たち 〕 これより石垣山一夜城歴史公園までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があります。散策をしながら、今は昔の物語をお楽しみください。
至 早川駅 / 卍 海蔵寺 / 堀 秀政 / 伊達 政宗 / 宇喜多 秀家 / 徳川 家康 / 羽柴(豊臣) 秀次 / 千 利休 /
淀 殿 / 豊臣 秀吉 / 石垣山一夜城歴史公園 / 至 入生田駅
〔 伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)〕 米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と戦い、仙道七都を手に入れ勢力を広げていった。秀吉に従い小田原合戦に加わるべきか迷い、なかなか参陣しなかったため、その遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死語まもなく家康に近づき、伊達六十二万石を確定させ、仙台城を築いた。幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。
〔 宇喜多 秀家 元亀3年(1572)〜明暦元年(1655)〕 備前岡山城主宇喜多直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約五十万石を治めた。小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を備えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講話を勧めたとする物語が伝えられている。
〔 徳川 家康(とくがわ いえやす) 天文11年(1542)〜元和2年(1616)〕
三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに豊臣秀吉に対抗したが、その後秀吉と和睦し、氏直にも秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率いて先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。家康の陣場跡には今でも土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。
〔 羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ) 永禄11年(1568)〜文禄4年(1595)〕 豊臣秀吉の甥にあたり、近江八幡四十三万石城主。小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の包囲に加わった。秀次の陣場は小田原城の北西、現在の辻村植物公園の東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の総世寺に寄進されている(市指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に関係が悪くなり、謀反を企てたとして高野山に追放、切腹を命じられた。
〔 千 利休(せんの りきゅう) 大永2年(1522)〜天正19年(1591)〕 和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のち宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、次いで豊臣秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道のひとつである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。
〔 淀 殿(よど どの) ? 〜慶長20年(1615) 生年を永禄12年(1569)とする説あり 〕 近江小谷城主浅井長政の娘、幼名お茶々。母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣柴田勝家と再婚した母とともに越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身ごもった。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられている。秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大阪城にあったが、大阪の陣に敗れ落城するとともにその生涯を閉じた。
〔 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) 天文6年(1537)〜慶長3年(1598)〕 織田信長に仕えて活躍。信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際は約80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、全国平定を成し遂げた。く
《 歴史公園内の案内板 》
〔 移設された石垣用石材 〕 国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面一帯には、17世紀前半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があります。この石丁場は、早川石丁場群関白沢支群という遺跡名で呼ばれており、平成28年(2016)には静岡県熱海市と伊東市の石丁場とともに「江戸城石垣石丁場」として国指定史跡となりました。ここに置かれている石垣用石材は、平成17〜18年(2005〜06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390)建設に伴う発掘調査によって発見され、移設したものです。移設された2石の石材は、発掘調査の11区から発見された7号石材(右側)と8号石材(左側)です。元々ひとつであった石に「矢穴」を一列に彫った後、矢(クサビ)を入れて2石に割ったものです。左側の石材の前面には「八」の刻印、右側の石材の割った面に「寸(「寸」の字が○で囲まれた文字)」の刻印が刻まれていることから、「八」の刻印より「寸(同上)」の刻印が後で刻まれたことが分かります。これらの刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えます。これらの石垣用石材は、広域農道小田原湯河原線(市道2390)の事業者である神奈川県、及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されました。(写真提供:神奈川県教育委員会)
〔 石垣一夜城のご案内 〕 この辺りは、笠懸山(かさがけやま)と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万とも21万ともいわれる大軍を率いて包囲し、その本営として総石垣の城を築いたことから石垣山と呼ばれるようになりました。石垣山に築かれた城が、世に「石垣山一夜城」又は「太閤一夜城」と呼ばれるのは、秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に櫓(やぐら)の骨組みを造り、白紙を張って城壁のようにみせかけ、周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城の将兵が、一夜のうちに城が出現したと思い士気を失った、という伝承によるものです。しかし、実際には延べ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。秀吉は、この城に淀君や側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは野面積(のづらづみ)を用い、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。石垣は度重なる大地震に耐え、築城後400年以上経過した今日でも当時の面影がよく残っています。小田原市
〔 豊臣秀吉の小田原攻め攻囲図 〕
〔 一夜城前トイレ 〕 このトイレは、小田原産の「すぎ」、「ひのき」で建設しました。地域の「木を使う」ことにより、「間伐(かんばつ)」などの森づくりを進めることができます。こうした森づくりは、豊かな水をはぐくみ、山くずれを防ぐだけでなく、地球温暖化の防止にも貢献します。このため、小田原市では、周辺の市町とも協力しながら、間伐などによる森づくりや、木材利用の拡大などに取り組んでいます。小田原は、小田原城や、この石垣山一夜城をはじめ、歴史や文化があふれる地であるとともに、森、里、川、そして海へつながる豊かな環境に恵まれています。小田原市では、こうした恵みをいかしつつ、森の資源である木材の有効活用を進めています。
〔 史跡 石垣山 石垣山城 〕 石垣山城は、「笠懸山(かさがけやま)」あるいは「石垣山(いしがきやま)」と呼ばれる箱根から派生する山上にあります。関白豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天正(てんしょう)18年(1590)の小田原合戦の際に築いた陣城で、徳川家康(とくがわいえやす)家臣松平家忠(まつだいらいえただ)が記した「家忠日記(六月二十二日)」に「石かけの御城」と記されていることから、「石垣山城」と呼ばれています。秀吉が、一夜のうちに城が出現したようにみせかけたとの伝承から「石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)」とも呼ばれていますが、実際には「聚楽(じゅらく)又八大坂の普請(ふしん)を数年させられ候ニ不相劣様」と、聚楽第や大坂城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。今も穴太衆(あのうしゅう)により築かれた野面積(のづらづ)みの石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪(いどくるわ)の姿は圧巻です。
〔 石垣山城縄張図 〕
〔 国指定史跡 石垣山 馬屋曲輪(うまやくるわ)石垣 〕 石垣山の石垣は、古式の野面積(のづらづ)みと呼ばれる技法で積まれています。図2に示す馬屋曲輪の石垣は、比較的良好に築城当時の姿を保ち、延長約67m、高さ最大約6m、勾配約60度となっています。規格のない自然石を適切に組み合わせることで、強固な石垣を築いており、構築した技術者の高度な技術が窺えます。(図2は安全を確保するため平成28年度に実施した保全対策工事前の写真です)
史跡指定年月日:昭和34年(1959年)5月13日
石垣山は、豊臣秀吉が戦国大名小田原北条氏の小田原城を攻略するため、天正18年(1590年)に築いた総石垣の城です。地震等による被害で崩れた箇所もあるものの、今なお雄大な石垣が残っています。秀吉が天下統一を成し遂げ戦国時代が終わる舞台となった歴史的意義と併せ、築城年が限定される築城史上の基準として、学術上価値ある遺跡として史跡に指定されました。
〔 石垣山一夜城 二の丸(馬屋曲輪) 〕 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18(1590)年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて約22万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりました。この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城ともいわれています。ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張出した部分及び東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では、詳細は不明です。
〔 史跡 石垣山 石垣山の縄張は誰が? 〕 石垣山城には、同じく豊臣秀吉が築城した肥前(ひぜん)名護屋(なごや)城(佐賀県唐津市)との共通点が多く見られます。両城を比較すると、南曲輪=弾正丸(だんじょうまる)、西曲輪=二の丸、本城=本丸(天守台の位置も一致)、馬屋曲輪(うまやくるわ)=三の丸 に該当しているように見えます。井戸曲輪(いどくるわ)に該当するものは肥前名護屋城にはありませんが、三の丸に相当する場所でちょうど井戸が確認されています。『太閤御陣城(おんじんしろ)相州(そうしゅう)石垣山 古城跡』には描かれていませんが、石垣山城で北曲輪と想定されている部分には、肥前名護屋城には東出丸(ひがしでまる)があり、その類似性は明らかです。肥前名護屋城の普請は、石田正澄(いしだまさずみ)の書状などから黒田長政(一説に黒田官兵衛(くろだかんべい))・小西行長(こにしゆきなが)・加藤清正(かとうきよまさ)などが命じられたとされています。しかし、この3人は小田原合戦には参陣しておらず、黒田官兵衛のみ参陣を確認することができます。石垣山城は誰が縄張りしたのでしょうか? 石垣山城の謎の一つです。
〔 国指定史跡 石垣山 井戸曲輪跡(いどくるわあと) 指定 昭和34年5月13日 〕 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩(うまや)曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から25メートルも下がったところにあり、今でも涌き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君(よどぎみ)化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積(のづらづ)みで、築城に際して西国から穴太(あのう)衆と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。小田原市教育委員会
〔 史跡 石垣山 井戸曲輪跡 〕 井戸曲輪(いどくるわ)は、谷地形を利用して造られた曲輪です。南側・西側には石垣、北側・東側には石塁(せきるい)が造られています。この石塁によって谷を遮蔽(しゃへい)し、湧き水を貯水する構造になっています。湧水部は、馬屋曲輪(うまやくるわ 二の丸)東側からスロープと階段で降りるようになっていました。そのため、らせん状に降りる構造から「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石塁は約10m以上の高さがあり、下幅で11〜18m、上幅で5〜8m程度の規模を有します。このような石塁は石垣山城では井戸曲輪のみですが、穴太衆(あのうしゅう)による野面積(のづらづ)みの様子がよくわかります。
〔 箱根ジオパーク「豊臣秀吉が築いた総石垣の城」石垣山一夜城 〕 小田原城に立て籠もる小田原北条氏を攻めるため、箱根火山外周の尾根上に豊臣秀吉が築いた総石垣の城で、国の指定史跡となっています。石垣は小田原城とは異なり、自然石や矢穴のない荒割りした安山岩を用いた野面積みで造られており、井戸曲輪や南曲輪の石垣の様子は見事です。また、ここからは、小田原の市街地が広がる足柄平野から大磯丘陵、そしてその境界に位置すると考えられている国府津−松田断層の地形を一望できます。
〔 一夜城からプレート境界を見る 〕 地表面は数十枚のプレートという岩板でおおわれています。その境界の1つが、この付近を通っています。一夜城は箱根火山にあり、フィリピン海プレートに属します。大磯丘陵は北米プレートに属します。両者の間にプレートの境界があり、大磯丘陵側が隆起しています。
〔 秀吉、石垣山一夜城 築城 〕 小田原城の攻略にあたり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
〔 小田原城を包囲する戦国の英雄たち 〕 豊臣秀吉の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠もり、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3か月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
〔 小田原合戦攻防図 〕 天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
〔 北条氏 VS 豊臣氏の小田原合戦 〜天下分け目(プレート境界)の戦い〜 そして、戦国時代は終わる 〕
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一の事業が達成され、小田原北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。
〔 中世最大規模の城、小田原城出現 〕 小田原北条氏は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに及ぶ長大な総構を構築し、決戦に備えていた。結果的に交渉は決裂。小田原北条氏は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100か所以上に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。
〔 小田原北条氏の降伏 〕 小田原北条方は、各地の諸城に籠もって防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠もる小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。この行動に秀吉は感嘆し、氏直の父氏政とその弟氏照には切腹を命ずるが、氏直の命は助け、高野山への追放とした。ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
〔 史跡 石垣山 小田原合戦と一夜城伝説 〕 小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣秀吉は、天正18年(1590)3月1日に京都を発し、4月3・4日には小田原城の攻囲を開始しました。そして、4月6日には早雲寺(箱根町)を本陣とし、その日のうちに笠懸山(かさがけやま 石垣山)に登って小田原城を眺望しました。周囲9kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めました。普請は急ピッチで進み、秀吉は5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを妻の北政所(きたのまんどころ ねね)に手紙で知らせています。6月9・10日には奥州の雄、伊達政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候(しこう)します。その時政宗は、前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を始めとする諸将に賞賛されています(「木村宇右衛門(きむらうえもん)覚書」)。そして6月26日、秀吉は石垣山に本陣を移しました。これを期に、秀吉は小田原城へと一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏を脅かしました。このような秀吉の行動や政宗と白壁の逸話が、「小田原城を遮(さえぎ)る大樹を悉(ことごと)く斬る。小田原城中より是を見て笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く」(『大三川志(だいみかわし)』)や「面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(『北条記』)との、後の一夜城伝説を生んだのです。一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員した築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったのです。
〔 自然を楽しむ みちA スダジイの古木 〕 かつて神奈川県の低地では、常緑広葉樹を主体とした林が広がっていたと考えられます。しかし、人間が薪や炭を得るために木を切るようになってからは、ほとんど落葉広葉樹の林となりました。スダジイ(ブナ科)はかつて繁茂した常緑広葉樹の代表的な樹種です。秋に実る小さなドングリは昔の人々にとって重要な食料資源でした。神奈川県立 生命の星・地球博物館
〔 保存された石丁場 〕 発掘調査の10区にあたるこの場所は、広域農道小田原湯河原線(市道2390)建設に伴う発掘調査によって最も規模が大きく保存状態も良好な石丁場であることが明らかになりました。このため、事業者である神奈川県が橋を架ける設計に変更し、現地に保存されることになったものです。ここでは、安山岩の転石を割るための「矢穴(やあな)」が一列に彫られて割る直前の状態の石材(@)、目的とする大きさに割る作業途中の石材(A)、形を整える加工が行われている石材(B)、石垣用石材として整形が済んだ石材(C)が場所ごとに別れて確認されており、この10区で石丁場の一連の作業を観察することができます。石垣用石材は、縦1mX横1mX長さ2〜3mの大きさに整形しようとしているようです。また、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられる刻印は、「八」・「+(「+」の記号が○で囲まれた記号)」・「寸(「寸」の字が○で囲まれた文字)」が確認されています。このように、つい昨日まで作業を行っていたような生々しい状況が目の前に展開しており、切り出し作業の工程がとても良い状態で残されていることから、石丁場を理解する上で極めて重要な場所です。(写真提供:神奈川県教育委員会)
〔 運びだそうとした石垣用石材 〕 ここに設置されている石垣用石材は、早川石丁場群関白沢支群の北西側を流れる関白沢の改修工事の際に発見されたものです。きれいな直方体に形が整えられていることから、17世紀前半の江戸時代初期に早川石丁場群関白沢支群から江戸城へと運び出そうとした石垣用石材であったと考えられます。早川石丁場群関白沢支群の石垣用石材は、平成17〜18年(2005〜06)の発掘調査で発見された「石曳道(いしびきみち)」から早川へ至り、早川の河口から江戸城へ「石船」と呼ばれる船によって海上ルートで運び出されたと推定されます。ここに保存されている2石の石垣用石材は、江戸城へ運び出す際に何らかの原因で関白沢に落としてしまい、そのまま放置されたものと推定されます。小田原市教育委員会
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