〔 武山(たけやま)〕 横須賀市 2020.8.20 [ 日本山名事典: ] ■ gallery.js ■ 山のページへもどる

〔 BGM:"感動をあなたに(2)"( written by Kyaai )〕 

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#1-1〔 解放戦士の碑 碑の由来 〕 この解放戦士の碑は、神奈川県下の平和と民主主義の運動のなかで逝った活動家を顕彰するために、1982年11月に、たくさんの人々の浄財によって建立された。この碑の建立・制作のためには、岡崎一夫、山内忠吉、長野彰、陣之内鎮、斉藤秀夫、菊地由次、飯島松雄、飯島東、永橋為成などが尽力した。
 神奈川県解放戦士顕彰会実行委員会

#2-1〔 米軍機墜落事故 訴訟 〕 1977年の米軍機墜落事故で椎葉悦子は全身大火傷を負った。夫である椎葉寅生と二人の子の家族四人は国と米兵を被告に事故原因の究明と責任の追及制裁賠償を求め訴訟を提起した。県内外の民主的な団体個人によって支援共闘会議を組織し、300人を超える大弁護団を結成し、1987年3月4日「安保に風穴」と評される勝利の判決を勝ち取った。これは平和民主運動を大きく励ました。更なる運動の発展を誓いこの碑を建立する。
 2009年9月27日 米軍機墜落事故訴訟支援共闘会議/米軍機墜落事故訴訟弁護団/米軍機墜落事故訴訟原告団
#2-2平和の母子像 鳩よよみがえれ 〕 1977年9月27日 厚木基地より空母ミッドウェーに向かっていた米軍機が横浜緑区に墜落炎上9名が死傷 林裕一郎君3歳 康弘ちゃん1歳は焼死 全身やけどを負った母親の和枝さんは 子どもの分まで生きて事故の証人になると苦しい治療に耐えたが 事故の真相もあきらかにされないまま1982年1月26日 31歳の若い命を無念のうちに閉じた。このような悲惨な事故をゆるさない 核も基地もない日本をつくりたい そう願う多くの団体 個人によって ここに平和の母子像 鳩よよみがえれ を建立する。
 1985年9月29日 平和の母子像建立実行委員会

#3-1武山子安地蔵尊 〕 お地蔵さまは左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)をもち、衆生(しゅじょう)を救い 慈悲の心の大切さを教えられている菩薩さまであります。賽(さい)の河原で童子の救主(すくいぬし)として有名であります。この子安地蔵尊は子授(こさずけ)・安産 また幼くして他界された霊(みたま)の菩提をとむらい 子供のすこやかなる成長を願って建立されたものであります。合掌

#4-1〔 市制施行70周年記念 横須賀風物100選 武山初不動 〕 初不動は、例年1月28日で、縁日商人や近在の善男善女でにぎわっています。ここに至る参詣道は、南武、一騎塚、須軽谷、北下浦と四方にあります。それらの登山口には、必ず前不動と呼ばれる不動明王像が立っていて、参詣人の案内役を勤めます。不動明王は、大日如来が一切の悪魔を払うために変身された姿で、災害を除き財宝を得る功徳があると言われています。とくに、武山不動尊尊は、航海安全の浪切不動として広く知られ、漁業関係者から厚く信仰されています。沿岸漁業者にとっては、この山頂が漁場を定める基準として、あるいは、港の方向を知る標準として欠かすことのできないお山であったことも信仰を深めた一因と思われます。「武山の不動さん」と親しまれているこの寺院の正式名称は、「龍塚山持経寺 武山不動院」で浄土宗です。ここに安置される不動尊は、後小松天皇の御代、応永4年(1397)に奈良東大寺の沙門万務大阿闍利(しゃもんまんむだいあじゃり)が、諸国行脚の途中に、現在の南武にあった持経院に立ち寄り、高さ3尺9寸(約117センチメートル)の不動尊を彫刻して本尊としたものです。その後、修験僧 讃与見随(さんよけんずい)が、この山頂に移したと伝えられています。この山頂には、オオムラサキ、博多白、妙義山のツツジが約2000本あり、毎年4月下旬に「武山つつじ祭」が行われています。また、この山頂は、一騎塚から現在地を経て砲台山、三浦富士、津久井に至るハイキングコースの一拠点でもあります。

#5-1武山不動尊縁起由来 〕 当山は浄土宗龍塚山持経寺不動院と称します。武山は昔日本武尊が弟橘比売命妃と共に御登りになられたので其の名がつけられたと謂われ、又、三笠宮、浩宮様方も学習院に在籍中は御遊覧にお登りになられた由緒ある歴史を持っております。抑も(そもそも)当不動尊は後小松帝の御写応永4年(西暦1397)奈良東大寺門萬務大阿闍利が諸国行脚の折 当地に立ち寄り創建したもので 国家安全萬民福利を祈願とする道場として一刀三禮感応の霊場、霊作たる不動明王を安置し奉り三浦半島の総鎮守として霊場一番の札所であります。当山の標高は海抜200米余の高燥の地位を占め 空気清浄閑雅にして遠くには雄大なる太平洋をのぞみ 近くは霊峯富士の山を控え 眺望絶佳なるをもって善男善女 紳士淑女 学生団体の参拝あり 又 航海者 漁夫達の目標の場所として特に篤い信仰を寄せられております。龍塚山持経寺 武山不動院

#6-1身代り不動尊・筆塚 由来 〕 江戸末期文化の頃、豪雨の中、本堂脇のオオキの大木に落雷 大木は真二つにさけ 焼け焦げとなりました。御本尊 御本堂も無事なるを見た人々は身代りと唱えました。その大木 年代を経て芽を吹き 青き葉枝をささえ旺盛なる力に感動し 参拝の有信者が手を合わせ 身代り不動尊を唱え これをまつりました。合掌
[ 筆塚 ] 人は皆 筆により智を幸を知る その筆に感謝し成長する事を念じ ここに筆塚を信者の賛同御寄附を得て建立されました。合掌   龍塚山持経寺 武山不動院
© 2016 Simon Sablowski