【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 田楽辻子(でんがくずし)のみち 由来 〕 鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住んでいたためと伝える。辻子は通りぬけのできる小路のことで、十字路を辻という。「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると筋替橋(すじかえばし)を起点として宝戒寺裏から滑川(なめりがわ)を渉り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の入口をへて宅間ヶ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。
〔 鎌倉市制50年記念施設 鎌倉市こども自然ふれあいの森 〕 この森は、子どもたちが自然やお年寄りをはじめとする人々とのふれあいを通してさまざまな体験ができる場として整備したものです。みんなで仲良く大切に使いましょう。
〔 お猿畠(さるばたけ)の大切岸(おおきりぎし) 〕 お猿畠の大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3〜10mの断崖が尾根に沿って連続する壮大な遺構です。従来、鎌倉幕府が三浦一族の攻撃に備えて鎌倉の守りを固めるため、切通の整備とあわせて築いた防衛遺構だと言われてきましたが、平成14年度の発掘調査で、大規模な石切作業の跡だということが確認されました。これによって鎌倉防衛の役割が完全に否定されたわけではありませんが、鎌倉では14〜15世紀頃の建築基礎などに切石を大量に使用しており、ここはその頃の石材生産地だったと考えられます。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮がこの付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。
〔 国指定史跡 名越切通(なごえきりどおし) 〕 名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡(あずまかがみ)』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘(だび)に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸 おおきりぎし)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。
注意:この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行うことは、文化財保護法により禁止されています。平成24年3月 逗子市教育委員会
〔 国指定史跡 名越切通(なごえきりどおし) 〕
昭和41年4月11日指定 / 昭和56年10月13日追加指定 / 昭和58年11月26日追加指定
名越切通は、鎌倉時代に尾根を掘り割ってつくられたとされる通行路で、鎌倉幕府の事績(じせき)を記した『吾妻鏡(あずまかがみ)』の天福(てんぷく)元年(1233年)8月18日条に「名越坂」として登場するのが史料に見られる最初です。近世以降は「鎌倉七口」のひとつとしても数え上げられ、鎌倉と三浦半島方面とを結ぶ道として重要な役割を果たしてきました。切通の周辺には、鎌倉の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸(きりぎし)(人工的な崖)、やぐら(四角い横穴に石塔を建て、納骨・供養する施設)や遺体を火葬した跡なども多く分布しており、中世都市鎌倉の周縁(しゅうえん)の歴史的景観をたいへん良く残しています。
[ 現在の切通のすがた ]
現在の名越切通の道筋には、尾根の岩盤を掘り割って道をつくり、両側が急な崖になっているところが3カ所ありますが、最も高く切り立ったこの部分を第一切通と呼んでいます。鎌倉時代に外敵の侵入を防ぐために、あえて狭くつくったと言われていますが、発掘調査を行ったところ意外な結果が明らかになりました。現在私たちが歩いている切通は路面の幅が1〜1.5mほどですが、その下に複数の古い道路面が重なって発見されました。最下層(現地表から約60cm下)の道路面は幅2mほどで、そこから18世紀後半以降に作られた陶磁器が出土しました。これによって、現在の道筋の地下に埋もれている最も古い道は、江戸時代に使われていたということがわかったのです。その後、地震などによって両側の崖が崩れるたびに道が埋まり、そのつど整地・修復して新しい道をつくったため、どんどんかさ上げされて路面が高くなったと思われます。一時期は道幅を広げる工事も行われたようで、路面の幅が約3m、両側に排水のための溝も設けられていました。しかし、明治16年(1883年)にトンネル道路が、同22年(1889年)に横須賀線が開通すると、切通も幹線道路としての役割を終え、埋もれるがまま修復の手を加えられることもほとんどなくなり、最終的に現在のようなすがたになったと考えられます。
発掘調査では、鎌倉時代の路面は確認できませんでした。切通に面した崖のかなり上の方に鎌倉〜南北朝時代頃に掘られたと思われるやぐらがあることから、当時の道筋が今とあまり変わらないとすれば、その道は今よりずっと急坂で、高い位置を通っていたのかも知れません。一方、時代が下って、室町時代の僧堯恵(ぎょうえ)は、名越切通の様子を「畳々(じょうじょう)たる巌(いわお)をきり、山をうがち、旧跡の雲につらなる」と述べています(『北国紀行』)。中世の後半には、通行しやすいように掘り下げられていたことを示しているとも思われます。鎌倉幕府執権北條氏によって鎌倉の守りの要(かなめ)としてつくられたと言われる名越切通は、当時のすがたそのものではないと考えられますが、重要な交通路として近代にいたるまで長く使われ続けてきた貴重な史跡であることに変わりはありません。
お問合せ:〒249-8686 逗子市逗子5-2-16 逗子市教育委員会 社会教育課 文化財保護係
Tel. 046(873)1111 Fax. 046(872)3115 平成21年3月
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