【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 市指定 天然記念物 滝本の大スギ 〕 参道の杉並木のうち最大のものである。青梅市にはこのほか、東京都指定天然記念物の杉の大樹が、安楽寺と塩船観音寺にあるが、ここのはそれに次ぐものである。乗物の便のなかったころ、ここまでやっとたどり着いた御岳道者たちが、落ちる滝水をうち眺めつつ一息入れるのは、いつもこの木のところであった。
和名:スギ科 スギ / 幹の太さ:570センチメートル 昭和43年11月3日 青梅市教育委員会
〔 滝本の大スギ 〕 樹勢は旺盛で、幹回り約6.3メートル、樹高は約43メートルもあり、都内では有数の巨木である。幹や枝が天に向かって伸び、荘厳さを感じさせる。ケーブルカーが開通するまで、徒歩で御嶽神社に向かう参拝者は禊橋(みそぎはし)を渡ったこの場所で休息し、気持ちを新たにしてから、御嶽神社に向かったと伝えられる。
〔 御岳山名木巡り 1番 青梅市天然記念物 杉並木1号大杉 〕
樹齢:推定 350年 江戸初期 / 樹高:45米 / 目通り:6.1米
〔 市天然記念物 参道の杉並木 〕 滝本から山頂まで26丁(3キロメートル余)の参道は、江戸時代初期に整備されたものと伝えられ、両側に並んでそびえ立つ杉の巨木は、御嶽神社に参拝する人々に霊山(れいざん)の荘厳(そうごん)さを感じさせている。年間の雨量が多く多湿で肥沃な奥多摩の地形と地質は、杉の生育に最適であり各地に美林が多いが、このように巨木が群をなしているところは少ない。幹回りが約6メートル、樹齢300年以上と推定されるものもあって、その総数は600本以上を数える。
植物名:スギ科 スギ 昭和43年11月3日 指定 青梅市教育委員会
〔 ろくろっ首 〕 「ろくろ」は、細長い首が、左右に曲がっている、若い女性のお化けである。この付近の坂道は急で、左右に蛇行(だこう)している。まるでお化けの「ろくろ」の首のように、曲がりくねっていることから、いつしか付近を「ろくろっ首」と呼ぶようになったと伝えられる。
〔 うまたてば 〕 ※ 標柱に「御岳山青年団 岳の子」の表示板あり
「たてば」は、休息所である。参道は坂道が続くため、かつては数か所で、馬や駕籠(かご)を休ませながら、山上へ進んでいた。「ろくろっ首」付近は、特に急な坂道である。上がり終わった「たてば」で、人はもちろんのこと、馬も重い荷物を下ろして一休(ひとやす)みし、元気を取り戻してから、山上へ向かっていた。
〔 おおまがり 〕 「うまたてば」を過ぎ、この付近までまで来ると、参道は緩やかな勾配となるため、坂道の曲がり具合も、大らかな曲がりとなる。急な坂道を進んでいると、先を歩いている人が「おおまがりに着いたヨ」と言えば、後ろからついて来る人たちは、「楽になれる」と安堵感(あんどかん)を持ったと伝えられる。
〔 なかみせ 〕 参道入口の禊橋(みそぎばし)と山上にある御師集落との、ほぼ中間の場所である。禊橋から約30分の距離で、付近は緩やかな坂道であることから、一休(ひとやす)みをするには、都合が良い場所であった。かつては、小さな茶店も建っていたため、いつしか付近は「仲見世」と呼ばれるようになった。
〔 だんごどう 〕 かつて団子堂という御堂があり、地蔵様(八大地蔵)が祀られていたと伝えられる。地蔵様が困らないよう、地蔵様の膝下(ひざもと)には、参拝する人たちが、団子をお供えしたことから、いつしか団子堂を称されるようになったと伝えられる。現在も祠(ほこら)があり、新しい地蔵様が道中の安全を願っている。
〔 じゅうやっくぼ 〕 「じゅうやく」は漢字で書くと「十薬」「重薬」で、薬草のドクダミの別名である。「くぼ」は窪地である。この谷間は、薬として利用できるドクダミが、たくさん自生している場所であったことから、いつしか「十薬窪(じゅうやっくくぼ)」と呼ばれるようになったと伝えられる。
〔 だいこくのお 〕 漢字では「大黒の尾」と書く。禊橋(みそぎはし)を渡った場所からここまで、急な坂道が多かった。ここでは尾根を横切り、ここから先は勾配が緩やかな参道となることから、気を楽にして歩けるようになったのは、「大黒様のおかげ」と感謝の意を込め、大黒様の尾根と称されるようになったと伝えられる。
〔 あんまがえし 〕 「あんま」さんは、現在の整体師(せいたいし)である。かつては視力が弱い人たちの多くが就業していた。視力に恵まれなかったため、ほとんど平坦なこの付近を、御嶽神社の境内と間違え、付近で参拝してから引き返した「あんまさん」がいたとも伝えられる。このことから、いつしか付近が「あんまかえし」と呼ばれるようになったと伝えられる。
〔 やまのかみ 〕 禊橋(みそぎはし)を渡ったこの参道は、北側から御嶽神社へ向かう参道なので、北御坂(きたみさか)と呼ばれている。山ノ神は、山に宿り、そこに棲むすべての生物を支配する、神霊の総称である。往来する人たちは、山地内での安全を、山の神に祈願する。
〔 くろもん 〕 江戸時代、それぞれの集落(街)の出入口には、夜間、外部からの訪問者を防ぐため、「黒門」が設けられ、番人が見張っていた。この場所は山上の御師集落(おししゅうらく)の出入口にあたるため、黒門が置かれていたと伝えられる。しかしながら、番人がいたかどうかについては、不明である。
〔 御岳山名木巡り 8番 国の天然記念物 神代欅(じんだいけやき)〕
樹齢:推定 1千年 平安時代 / 樹高:30米 / 目通り:8.2米
〔 中西悟堂 歌碑 〕
(案内板の解説文 判読難)
蝕之月 杉の 木の間に かゝりゐて 佛法僧を なくこゑ 遠し 悟堂
〔 武蔵御嶽神社由緒 〕
社伝によれば、創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、第十二代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼の先導によって遁れられたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されております。山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。天正18年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地30石を寄進され、慶長11年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。人々の社寺詣が盛んになると共に、世に三御嶽の一つとして、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に拡がり、講も組織され、現在に及んでおります。明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和27年武蔵御嶽神社と改めました。
(「御祭神」の記載 )・(「御社宝」の国宝、重文、重美、有形・無形文化財などの記載 )・(「祭儀」・「行事」の記載 )
〔 神山霊土歌碑 〕
〔 東京都指定 有形文化財(建造物)御嶽神社旧本殿 〕 所在地:青梅市御岳山176/指定:昭和27年11月8日
御嶽神社の土(山砂)を持ち帰って、それを田畑に撒くと、土の霊力によって虫の害を防ぐことができるという信仰が今でも残っている。この信仰にもとづいて、碑の題を明治政府の参議、外務卿を勤めた副島種臣が書き、幕末から明治時代の国文学者、歌人で本居宣長の曾孫にあたる本居豊穎(とよかい)の長歌および短歌(反歌)を幕末から明治時代の政治家、書家山岡鉄舟が書いたものである。この碑は神社の玉垣内にあるので、立ち入り禁止ですが、社務所に申し出れば見学することができます。 平成3年3月30日 青梅市教育委員会
〔 琴平神社(元金毘羅大権現) 〕
祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)・崇徳天皇(すとくてんのう) / 鎮座:不詳
沿革:梅郷を一望し、常に氏子を見守ることのできる巌山の頂上に鎮座する当社は、古くは「金毘羅大権現」と呼ばれていました。明治以降は、「琴平神社」と呼ぶようになりました。当地は、戦前まで養蚕が盛んで繭の生産が氏子の生活の支えであり、産業の中心でありました。増殖豊産の産土神として崇敬されていた当社には、繭の豊作を祈願する人が多く、繭の当たり年にはお礼に猫の焼き物が奉納されたものでした。(猫は、天敵であるネズミから繭を守ったものと伝えられております。) 現在も、商売繁盛を祈願する人が多く、新しい招き猫や、現代的な招き猫がたくさん奉納されています。 平成25年4月
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