【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
【 関東ふれあいの道 《 義経伝説と滝のあるみち 》
このコースの中心顔振(かあぶり)峠は、奥武蔵から富士山に至る山並みの展望にすぐれ、奥州へ逃れる源義経が景色の良さに顔をふりふり登ったという伝説があるほどです。終点の黒山には、山岳伝説の修験道場として栄えた黒山三滝や、渋沢平九郎自刃の地があります。伝説と歴史にいろどられた全長8.0KMの一般向きコースです。
[吾野駅]- 3.6KM -[顔振峠]- 1.8KM -[傘杉峠]- 1.6KM -[黒山三滝]- 1.0KM -[黒山バス停]
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【 顔振峠 】 標高500米 吾野駅から約4粁 黒山東武バス終点からも約4粁 此の峠は昔 義経弁慶主従が余り展望のすばらしさに顔を振り振り眺めたので此の名がついたと云われます。明治維新の際 幕軍の勇士(子爵 渋沢栄一の義弟)渋沢平九郎は 飯能の戦に敗れ 単身顔振峠に落ち来たり 峠の茶屋にて草鞋(わらじ)をもとめ その代価として刀を預け 店主加藤たきに秩父路の安全なることを聞くも、遠く故郷大里の空を見て望郷の念止みがたく すすめるお茶も飲み残し 黒山に下りて官軍に遭遇し
惜しまるる時散りてこそ 世の中は 人も人なり花も花なれ
と辞世を残して自刃し 若冠(じゃっかん)22才の若桜おしくも此の峠の麓に散りました。春夏秋冬折々の関八州の眺めはつきぬ情致豊かな峠で有ります。 平九郎茶屋 加藤ツチ子
【 渋沢平九郎と顔振峠 】 旧暦慶應4(1868)年5月23日、飯能戦争と呼ばれる幕府方対新政府方の戦闘が、飯能の町を中心に勃発した。このとき旧幕府方の中心的存在であった振武軍で参謀を務めていたのが、渋沢平九郎である。彼は「日本近代資本主義の父」渋沢栄一の養子であった。新政府方の圧倒的な兵力により飯能戦争はわずか半日で終結した。振武軍ら旧幕府方の兵士は敗走を余儀なくされたが、逃げる平九郎が一人たどり着いたのが、顔振峠であった。故郷に帰りたい一心からか、郷里へ続く越生町方面の道へ降りて行ったという。しかし顔振峠から山を下ったところで新政府方の兵士に遭遇、追い詰められた平九郎はその場で自刃して果てた。22歳という若さであった。最期の地となった越生町黒山には、彼が自刃した際に座ったとされる岩が今も残されている。(飯能市 山間地域振興支援事業)
【 標柱 】 福徳寺 阿弥陀堂 付 厨子(1棟) / 鉄造 阿弥陀三尊立像(3躯) 【 国指定重要文化財(建造物)福徳寺 阿弥陀棟 付(つけたり)厨子(ずし)一基 昭和24年2月18日指定 】 この阿弥陀堂は、間口、奥行共に三間四面(さんげんしめん)板壁造(いたかべづくり)の回縁(かいえん)つきで、前面は精巧な「蔀戸(しとみど)」となっている。屋根はかつて茅葺(かやぶ)きであったが、昭和30年度の復原修理により、小屋組を旧に復して勾配の美しい宝形造(ほうぎょうづくり)に改め、頂に露盤(ろばん)・宝珠(ほうじゅ)をのせる銅板葺(どうばんぶき)とした。内部は2本の来迎柱の前に禅宗様(ぜんしゅうよう)須弥壇(しゅみだん)を据える。阿弥陀堂の創建年代は詳(つまび)らかではないか、様式手法により鎌倉時代末期とされ、藤原期の流れを踏襲した、関東地方でも数少ない和様建築である。一方、内陣の須弥壇と来迎壁(らいごうかべ)廻りは室町時代に属するものとされる。厨子は檜(ひのき)の白木造で、簡素で省略も目立つが、木鼻(きばな)の特徴や欄間(らんま)のすかしなどから、桃山時代前後と考えられている。厨子には県指定文化財の鉄造阿弥陀三尊立像が安置されている。 飯能市教育委員会 福徳寺
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