【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 関東ふれあいの道 伊豆ヶ岳を越えるみち 〕 このコ−スは、有馬秩父・奥武蔵の山々を始め、晴れた日には関東平野を一望できる伊豆ヶ岳を中心とした全長約14.5kmの健脚向きの自然歩道です。沿線には、足腰の守り神として有名な子(ね)の権現や西川材で名高い杉櫓(すぎやぐら/櫓杉?)の植林地帯。また天目指峠・高畑山・古御岳・正丸岳といった尾根が続き、奥武蔵の自然を慕うハイカーが多数訪れるところです
〔 お申講(さるこう) 〕 2月の初申(はつさる)に、山の神を祭るのが「お申講」で山の多い飯能には特に多く、今も盛んに行われています。りっぱな社殿をもつもの。小さなほこら、古木、石等対象もさまざま。祭神もさまざまで、大山祇神(おおやまつみのかみ)・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)としるしたものを多く見かけますが、山の神とは、猿田彦だとか、天狗とか、本物の猿とか、いろいろな答えが返ってきます。山の木を守ってくれ、働く人の安全を守ってくれるのが山の神。そう信じて頭を下げれば、しめを張った1本の木でもよいわけです。山仕事で暮らす人の多い地区では、いろいろおもしろい話が聞けます。環境庁・埼玉県
〔 チャートでできた山 〕 伊豆ヶ岳(いずがたけ)はチャートでできている山です。チャートは生物の死がいがたくさんたまって岩石に変わってできたと言われ、秩父帯のなかでもとくに固いため、浸食に対して強くゴツゴツした地形をつくっています。伊豆ヶ岳のほか、県内では両神(りょうかみ)山・城峰(じょうみね)山・武甲(ぶこう)山の南側の浦山渓谷などに、高い山やけわしい地形をつくる所にチャートが多く分布しています。環境省・埼玉県
〔 伊豆ヶ岳 〕 伊豆ヶ岳(いずがたけ)の山名は、突峰状の山容によるアイヌ語の「イズ」から出たものと言われています。地元では、快晴の日、山頂に登ると遠く伊豆まで見えるからという「伊豆ヶ岳説」、柚(ゆず)の木が多くあったからという「柚ヶ岳説」、また昔、麓の湯の沢で温泉が湧き出ており、その前の山だからという「湯津ヶ岳説」等、色々な話が伝えられています。環境庁・埼玉県
〔 天目指峠の伝説 〕 昔、この峠の上には竜神を祀(まつ)る祠(ほこら)がありました。この神様の一族が鰻(うなぎ)であったことから、この付近の沢では絶対に鰻をとってはならないとされていましたが、ある時穴沢(あなざわ)の木樵(きこり)がこの禁を破って鰻をとって食べてしまいました。竜神は大変怒って、大暴風と山崩れを起こして、穴沢部落を押し流してしまいました。穴沢は、峠から上名栗へ下る途中の集落です。環境省・埼玉県
〔 天目指峠 〕 天目指峠の由来は、天目はアマメと読み、これはこの付近の方言で豆柿を意味しています。豆柿というは、山地に自生する親指頭大の熟すと紫色になる柿の一種で、このあたりは柿が非常に豊富であったということです。また「指(さす)」とは、山地で行われる行われる原始的耕作法で、山を焼いてそのあとに種をまく焼畑のことです。環境庁・埼玉県
〔 飯能市指定有形文化財 木造不動明王立像 〕 飯能市大字南461番地/昭和62年4月1日 指定
この不動明王像は本堂左側壇上に安置されており、像高101.7センチメートルの一木造り(材質は不明)の三尺像である。不動明王像は護摩の香煙によって木理も判然としないほど黒ずんでいる。そのため、一見忿怒(ふんぬ)の面相が厳しく見えるが、素地は穏やかな面貌である。丸顔の面部、面高な頭部、肉付きの良い体躯、分厚い条帛(じょうはく)を左肩にかけて簡素な裳を薄手に彫り出し、右腰をわずかに前に出している。これらのことから、この像は、藤原様を伝えた地方仏師の作と見られ、12世紀を降らない頃の貴重な平安仏である。なお、両腕は肩から別材が用いられ、両脚も膝下から継がれており、後補されている。平成11年3月 飯能市教育委員会
〔 足腰守護の神様 子ノ権現 天龍寺 由緒 〕 当山は、延喜11年(911)に子ノ聖(ねのひじり)が天龍寺を創建されたことに始まります。子ノ聖は、天長9年(832)、子ノ年子ノ月子ノ刻に紀伊の国でお生まれになりました。幼い頃より聡明にして仏教に通じ、僧となっては諸国をまわり修行を積まれました。特に出羽三山において修行をかさね、ある日、月山の頂上に登り、年来読誦する般若心経を取り出し、「南無三世仏母般若妙典(なむ さんぜ ぶつも はんにゃ みょうでん)、願わくば、われ、永く跡を垂(た)るべき地を示し給え」と空高く投げました。すると、そのお経は南へ飛んで、当山の奥の院(経ヶ峰)に降りたち光りを発しました。この光りを目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は、悪鬼どもに襲われ火を放たれました。しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を消してくれました。その後、当山で修行教化に励まれた聖は、長和元年(1012)「我、すでに化縁つきぬれば、寂光土に帰る。然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生(しゅじょう)を守らん。我、魔火のために腰より下に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠に力で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能除一切苦(のうじょいっさいく)」という御誓願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。それ以後、子ノ聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚、「子」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります。
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