【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
【 橋立(はしだて)ルートの通行止めについて 】
武甲山へ登ろうと思い「西武鉄道で行くハイキングコース24選」というホームページを検索した。コース地図に「橋立ルート崩落の危険あり、通行止め」と書いてある場所があった。コースを模索するうち、武甲山から浦山口(うらやまぐち)駅へ下山された方のインターネット記事があり「崩落したと思しき場所には迂回路ができていました」との記載があった。「通行止め解除」なのかと思い、横瀬町観光協会「歩楽里(ぶら〜り)よこぜ」へ電話で「問い合わせ」た。
「現在、橋立ルートの崩落場所は通行できているようですが、秩父市が迂回路の工事をしたわけではありません。どなたか迂回ルートをつくられたのではないかと思われます。現在も『通行止め』のままです。武甲山から『シラジクボ』・『持山寺跡(もちやまでらあと)』をまわって横瀬駅へ出れば、同じ道をUターンするのを避けられるかと思います」との丁寧な回答がかえってきた。
西武鉄道24選のコースに従ってUターンするつもりで問い合わせたのだが、面白そうなコースを紹介してもらい、今度は「シラジクボ」を検索した。「シラジクボは、北関東から東北地方の方言で『すり鉢』を意味する『しらじ』に由来すると考えられています。地形的には『すり鉢状の窪み』と推測されます」とのこと。どんな登山道なのか興味がわいてきて、「シラジクボ・ルート」を歩くことにした。登山道の右手斜面に植えられた樹木(植林地だろうか)がとてもきれいだった。登山道のせまい場所にはトラロープが随所に整備されているので安心して通行できた。
【 武甲山御嶽神社(ぶこうざんみたけじんじゃ)御由緒 】
◇ 武甲山山頂に祀られる社、山麓の根小屋(ねごや)に里宮がある
当社は、第十二代景行天皇の御代(千九百年の昔)皇子日本武尊がご東征の折、武甲山山頂に武具を埋めて関東の鎮護となされたのを起源とする。その後、安閑天皇の御代に我が国の農業も進み、各所に義倉を置き凶作に備える ようになり、義倉を置いた国の高山には蔵王権現が勧請された。当社もその一社で、そのため武蔵の国号神社とも呼ばれる。更に欽明天皇の御代に日本武尊・男大迹尊・武金日尊を配祀する。のち朱雀天皇の天慶(てんぎょう)七年(944)に関東地方に大流行した悪疫に対し、時の郡司は医薬の神、少彦名命を当社に配祀して祈願、下って文治五年(1189)源頼朝公は当社に武運を祈願し、その功験あって建久二年(1191)に社領を寄進、また畠山重忠公も当社を厚く信仰して宗近銘の太刀を奉納する。永禄十二年(1569)には甲斐武田の軍勢が乱入して当社を焼いたが、この時北条氏邦公は当社に祈願して武田勢を追い払い、報賽として当社に國光銘の太刀と社領永三貫目の地を寄進し、天正二年(1574)には社殿を再建して大山祇命を配祀する。また大坂夏の陣には徳川家康公が当社に戦勝を祈って正宗銘の太刀を奉納する。以来、多くの人々の厚い信仰を受け、明治四年に村社となる。なお、当山頂のお宮を里でも参拝できるように里宮が設けられ、里宮にはご神殿と神楽殿と社務所がある。当社に伝わる神楽は、文禄五年(1596)秩父の代官、日下部丹波守が初めて神前に奉奏し、装束類を奉納したのに始まるという。里宮 横瀬町横瀬880−2
◇ 御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)/少彦名命(すくなひこなのみこと)/男大迹尊(おおとのみこと)/大山祇命(おおやまづみのみこと)/武金日尊(たけかなひのみこと)
◇ 御祭日 ● 春祭り(4月15日)/● 武甲山山開き(5月1日)/● 秋祭り(10月1日)
【 「武甲山(ぶこうざん)」 】 武甲山(標高 1304m)は、奥秩父山地より北方へのびる尾根の末端にある独立峰(どくりつほう)で、山体の北半分を二億年前の石灰岩が占めています。この中腹には、石灰岩固有植物で武甲山のみに生育する「チチブイワザクラ」をはじめ、「ブコウマメザクラ」や「ミヤマスカシユリ」などの特異性に富んだ石灰岩植物が自生しています。また、石灰岩の採掘(さいくつ)は、大正時代から始まり、高度経済成長期に増加し、昭和40年頃より急速に山容を変えてきました。昭和56年、関連企業三社による協調採掘が始まり、現在に至っています。現在、武甲山の山頂には、御嶽神社(みたけじんじゃ)が鎮座(ちんざ)していますが、古くは平安・鎌倉時代まで遡る(さかのぼる)痕跡(こんせき)が見いだされ、戦国時代になると、蔵王・熊野の両権現をはじめとした社殿や寺院等が建立(こんりゅう)され、江戸時代には山頂での祭祀(さいし)が一層盛んになりました。武甲山を祀(まつ)る民俗行事には、秩父夜祭、御嶽神社里宮の神楽(かぐら)、御田植神事(おたうえしんじ)、雨乞(あまご)い行事など、秩父地方一帯に広くみられます。なお、武甲山の山開きは、毎年5月1日に行われています。
【 持山(もちやま)寺跡(町指定史跡)】 持山寺跡は「阿弥陀山念仏寺」の廃寺と伝えられ、武甲山から続く小持山の山腹、標高約900mのところにあります。周辺には竹林、滝、池跡、入定(にゅうじょう)場、宝篋印塔(ほうきょういんとう/供養塔)などが現存しています。この持山寺には長七郎伝説が残されています。松平長七郎は、駿河大納言 徳川忠長(徳川三代将軍家光の弟)の子で、忠長は寛永10年(1633)に切腹させられています。この時、家臣に長七郎長ョの行く末(ゆくすえ)をたのんで死んだということです。秩父に伝わる口伝では、秩父を点々と歩き、終の住処(ついのすみか)としたのがこの持山で、ここで小庵を営み、祖圓(そえん)和尚を名乗り、最後には大鎌を首にまいて念仏往生をとげたといいます。下男に「この念仏が聞こえなくなったら、この紐を力一杯引いてくれ」と言い残し、石室に入り念仏を三日三晩唱え続けたといいます。四日目、恐ろしくなった下男は紐を引いてしまいました。念仏がハタとやみ、同時に羽の白い小鳥が「カキット、カキット」と鳴きながら飛びだして行ったそうです。 横瀬町・横瀬町観光協会
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