城山(しろやま 〕 あきる野市 2024.5.3 [ 日本山名事典: ] ● Skitter ● 山のページへもどる
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  • 〔1/98〕 武蔵五日市駅から西東京バス・増発便に乗り「西戸倉」バス停でおりる。220円。

  • 〔2/98〕 バス停を少し戻り、交番の手前、「戸倉新道」信号機の道を入る

  • 〔3/98〕 「↑ 城山」の案内標識が立っている

  • 〔4/98〕 方角表示板がある。右「城山」へ。

  • 〔5/98〕 鳥居の横を通過

  • 〔6/98〕 方角表示板を確認。「至 城山頂上方面」へ。「戸倉城跡」の案内板がある。「解説」参照。

  • 〔7/98〕 左の道へ

  • 〔8/98〕 登山道の様子

  • 〔9/98〕 右へ

  • 〔10/98〕 方角表示板がある。「城山」へ。同所にて。

  • 〔11/98〕 右、階段みちをのぼる

  • 〔12/98〕 右へ。表示板の設置に感謝。

  • 〔13/98〕 階段みちへ。左方向は枯木が「通行止め」を明示。

  • 〔14/98〕 登山道の様子

  • 〔15/98〕 分岐点に到着。左「城山山頂」へ。

  • 〔16/98〕 頭上の小屋はトイレ

  • 〔17/98〕 トイレを通過

  • 〔18/98〕 山頂に到着。「城山 標高434.1m」標柱。「城山」参照。

  • 〔19/98〕 素晴らしい眺望。かつて戸倉城があったとのこと。

  • 〔20/98〕 「三等三角点」

  • 〔21/98〕 山頂広場の様子。以上、山頂にて。

  • 〔22/98〕 さっきの分岐点へもどる。「荷田子(にたご)・臼杵山(うすぎさん)」へ。

  • 〔23/98〕 「荷田子・十里木(じゅうりぎ)」へ。左は枯木で「通行止め」。

  • 〔24/98〕 左へ。鉄塔を通過する。

  • 〔25/98〕 分岐点。右は「十里木」バス停方面。

  • 〔26/98〕 表示板を確認。後ろを振り返って。

  • 〔27/98〕 何回か小ピークを越える

  • 〔28/98〕 「盆堀山 399米」標柱。「城山 0.9km/荷田子(峠)1.6km 」地点。

  • 〔29/98〕 「独標 399m 東京350 盆堀山」表示板。以上、盆堀山にて。

  • 〔30/98〕 小さな小屋を通過

  • 〔31/98〕 中に小さな社(やしろ)が安置されている

  • 〔32/98〕 表示板通過。「荷田子 1.4km」へ。

  • 〔33/98〕 「臼杵山 3.3km/荷田子 1.1km」地点を通過

  • 〔34/98〕 「城山 →」への方角表示板

  • 〔35/98〕 表示板がある

  • 〔36/98〕 表示板確認。左は「まき道」。「臼杵山 3.0km/荷田子 0.8km」へ。

  • 〔37/98〕 展望台に到着

  • 〔38/98〕 山の名前が書いてある。稜線と文字が消えかかっていて確認できない。

  • 〔39/98〕 「荷田子峠」に到着。右下へくだると「荷田子 0.6km」。

  • 〔40/98〕 表示板確認。「臼杵山 2.8km」地点。

  • 〔41/98〕 表示板と石標がある

  • 〔42/98〕 表示板を確認。「臼杵山・市道山」へ。

  • 〔43/98〕 小さな祠(ほこら)

  • 〔44/98〕 「戸倉山 茱更(くさかんむり+更)御前」石標。この場所「グミ御前」の記述あり。「茱萸(ぐみ)」?

  • 〔45/98〕 見晴らしのいい場所を通過する

  • 〔46/98〕 「臼杵山 →」へ

  • 〔47/98〕 オトコヨウゾメ(男ようぞめ)。レンプクソウ科(旧スイカズラ科)。

  • 〔48/98〕 同上。葉にギザギザがある。

  • 〔49/98〕 「日当たりの良い山地に生え、白い花を咲かせる(5弁花)」とのこと

  • 〔50/98〕 ここも見晴らしがいい場所

  • 〔51/98〕 表示板を通過

  • 〔52/98〕 分岐点(合流地点)に到着

  • 〔53/98〕 表示板確認。「元郷バス停 2.7km」の道と合流。

  • 〔54/98〕 元郷バス停方向へ100mほど戻ると臼杵神社がある

  • 〔55/98〕 臼杵神社

  • 〔56/98〕 臼杵山に到着。混んでいる。

  • 〔57/98〕 「臼杵山 標高 842.1m」標柱。「臼杵山」参照。

  • 〔58/98〕 「三等三角点」。以上、山頂にて。

  • 〔59/98〕 右下へくだる。前方は枯木で「通行止め」になっている。

  • 〔60/98〕 見晴らしのいいピーク地点に到着

  • 〔61/98〕 樹木の伐採地

  • 〔62/98〕 登山道を進む

  • 〔63/98〕 「市道山」へ

  • 〔64/98〕 ピークを目指す

  • 〔65/98〕 ピーク地点に到着。分岐点。

  • 〔66/98〕 表示板確認。右「笹平」方面。檜原村観光協会HP「ヨメトリ坂 通行止め解除(2024.3.29)」の記載あり。

  • 〔67/98〕 市道山に到着。昼食休憩。

  • 〔68/98〕 「市道山 標高 795.2m」標柱。「市道山」参照。

  • 〔69/98〕 分岐点

  • 〔70/98〕 表示板確認。右「和田峠 4.5km」地点。「鳥切場(とっきりば)3.3km」へ。

  • 〔71/98〕 「市道山分岐 775米 日本山岳耐久レース 11.7km地点」標柱。同所にて。

  • 〔72/98〕 「鳥切場」へ。鳥切場まで何回かアップダウンを繰り返す。

  • 〔73/98〕 階段みちが整備されている

  • 〔74/98〕 登山道の様子

  • 〔75/98〕 表示板が2つある

  • 〔76/98〕 確認。「鳥屋戸(トヤド)720m」表示板。「日本山岳耐久レース 10km地点」標柱。

  • 〔77/98〕 もう一つの表示板。「鳥切場 1.8km」へ。

  • 〔78/98〕 「栗ノ木沢ノ頭 724m」表示板を通過

  • 〔79/98〕 「鳥切場 0.8km」へ

  • 〔80/98〕 ピーク地点を通過する

  • 〔81/98〕 赤い鉄塔下を通過。樹木の奥、鉄塔を撮影。

  • 〔82/98〕 「刈寄山 1.9km」方面へ進む

  • 〔83/98〕 分岐点

  • 〔84/98〕 確認。「鳥切場を経て刈寄山 森久保・関場バス停」へ。

  • 〔85/98〕 「鳥切場」に到着。分岐点。

  • 〔86/98〕 確認。「ここが鳥切場」の札がかかっている。「森久保・関場バス停」へ。後ろを振り返って。

  • 〔87/98〕 右「関場(バス停)」へ

  • 〔88/98〕 分岐点。左下へくだる。白いペンキの木がある方へ。前方にカーブミラーが見える。

  • 〔89/98〕 カーブミラーを確認。右手に「入山トンネル」がある。分岐点へもどる。

  • 〔90/98〕 左下に林道が見えてくる。白いペンキは登山道の目印かもしれない。

  • 〔91/98〕 林道に方角表示板がある

  • 〔92/98〕 林道へおりて後ろを振り返る。文字は読めないが右へ。

  • 〔93/98〕 「水源かん養保安林」案内板を通過。林道の名称は「盆堀林道」とのこと。

  • 〔94/98〕 住宅地へおりてきた。前方のT字路を左へ進む。

  • 〔95/98〕 「瑞雲山 龍泉禅寺」標柱を通過

  • 〔96/98〕 「関場」バス停に到着。林道へおりてから関場バス停まで約1時間。

  • 〔97/98〕 バス停スタンド。バスは1時間に1本。

  • 〔98/98〕 「臨時・急行」バス、5:38発「高尾駅北口」行きに乗る。高尾駅まで590円。

【 解説 】    ※ 画像クリック拡大表示

#1-1戸倉城跡 〕 戸倉城は、標高434メートルの城山(しろやま)山頂を中心にして東西の峰に築かれた中世の山城(やまじろ)である。東方の峰に城の中心となる曲輪(くるわ/削平地(さくへいち))を設け、その下に数段の曲輪を備え、虎口(こぐち/出入口)は枡形風(ますがたふう)に方向転換してから出入する防衛上効果的な形態がとられている。山頂近くには現在でも水のわき出る水の手(て/城内の飲料水としての井戸)が残る。西方の峰を中心として築かれ
た部分は出丸(でまる)に相当する。この峰上からは西方に桧原(ひのはら)城が眺望できる。出丸のある山頂には堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)の遺構が認められる。戸倉城の築城時期は明らかではないが、土着の地侍(じさむらい)と考えられる宮本(みやもと)氏や網野(あみの)氏らが構成員となった南一揆(みなみいっき)衆の活躍時期に使用されたものと思われる。尚、宮本家には南一揆に関する文書(もんじょ)が残っている。〔 戸倉城跡概念図 作図・文責:中田正光 〕

#1-2 〔 東京都指定史跡 戸倉城跡(とくらじょうあと)〕 所在地:あきる野市戸倉328ほか / 指定:平成5年3月22日
 戸倉城は、あきる野市戸倉の五日市盆地を眼下に望む山頂に、室町時代から戦国時代にかけて築かれた山城です。15世紀頃に武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての武士集団)の一員であった土豪小宮氏が築城したとの伝承もありますが、詳細は不明です。その後、天文15年(1546年)頃、北条氏康の次男氏照が大石氏の名跡を継いで滝山城主となると、
大石定久は戸倉に蟄居したと伝えられています。このことから戸倉城は、大石定久隠居城とも呼ばれています。北条氏照が滝山城を拠点にして、甲斐の武田氏と対峙するようになると、檜原城が甲州口の押さえとなり、戸倉城は網代城や高月城を経て、滝山城や八王子城へと入ってくる情報を中継する機能をもつ城になっていったと考えられています。天正18年(1590年)、八王子城の落城とともに、廃城となりました。枡形・虎口・竪堀等の跡が、現状からでも確認することができます。〔 令和4年3月 建設 東京都教育委員会 〕