【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示 ■■「 一ノ尾(いちのお)尾根 」・「 矢ノ音(やのね)」 の表記・読み方について、最下部参照 ■■
〔 歴史的建造物マップ(沢井地区) 〕
藤野の歴史的建造物めぐり協議会(ふじの里山クラブ、横浜国立大学大野敏) 相模原市
〔 春日神社本殿 〕
建築年代:文政9年(1826)※ 棟札に記載 / 構造形式:一間社流造、銅板葺
特徴:『新編相模風土記稿』によると御嶽社・諏訪社と共に沢井村の鎮守であったと記されています。複雑な組物・ 彫刻・彩色が華やかで豊かな造形を示しており、この地域が養蚕によって豊かであったことが推察されます。
〔 石井家住宅主屋(国重要文化財)〕 建築年代:宝永4年(1707) / 構造形式:桁行23.3m 張り行11.2m
特徴:石井家は、後北条氏配下の地侍が帰農したことに始まり、代々沢井村名主を世襲しました。主屋は、梁仕口墨書により建築年代が宝永4年とわかり、整形六間取りでほとんどの柱が鉋(カンナ)仕上げされている18世紀初期の大型かつ上質な民家で、昭和46年には、国の重要文化財に指定されております。
〔 森川家住宅主屋 〕
建築年代:慶応(1865〜68)頃/ 構造形式:桁行9間 梁行5.5間 切妻造鉄板葺(元茅葺)
特徴:森川家は屋号を「シモ」といい、組頭をつとめた家である。主屋は、元治元年に火災にあった後に再建されたもので、慶応頃の建築と伝える。建物は整形六間取りの大型住宅で、豪快枡組天井と太い大黒柱が見事である。
〔 遠藤家住宅主屋(国登録有形文化財)〕
建築年代:18世紀後半/構造形式:桁行14.5m 梁行9.1m 切妻造鉄板葺(元入母屋造・茅葺)
特徴:遠藤家は、屋号をヒガシといい、林業と養蚕を多く手がけ、昭和2年には繭生産番付「百人鑑」の上位に格付けされました。主屋は西にふれて南面し、主屋の南東方に文化7年(1810)建築の穀蔵・味噌蔵、西南方に明治31年頃建築の衣装蔵、後方に蚕室(建築年不明、昭和以前)を配します。土蔵2件も主屋と共に国の登録有形文化財です。
〔 佐々木家土蔵体験型修理 〕 勝野地域は、豊かな建築文化、良好に維持されており、多くの土蔵等が存在しますが、生活の変化や伝統的建築技術者の減少により、維持が難しい状況になっています。そこで、当地区佐々木家のご協力を得て、地域の協力により伝統に立ち返り、味噌蔵の体験型公開修理を実施しました。事業は、平成17年から19年まで、3か年度にわたり4期16回行い、延べ約300名の参加を得ました。
主催:ふじの里山くらぶ/共催:藤野町・藤野町教育委員会/企画・監理:国立大学法人横浜国立大学 建築学コース
〔 明王峠・石投げ地蔵 嬢ヶ塚 〕 景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に、「堂所山」という小峰がある。その昔、武田信玄が北条と合戦の時、鐘によって敵の情報を知らせるための鐘つき堂のあった跡でその名が付けられた。また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願した所と伝えられる。この峰の山頂に登り詰める一歩手前の道筋に、小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。伝説に塚の由緒を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の 国佐竹家に嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念がつのる様になった。やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ乳母と共に母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許しを得て従士三人乳母等五人で甲州に旅立つことになった。何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった。ある時は木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった。相模湖町・相模湖観光協会
〔 甲州道中案内図 〕 信州3藩の参勤交代やお茶壺道中、富士山や身延山信仰、善光寺詣などの人々の通行でたいへんにぎわった宿場と伝えられています。明治29(1896)年の吉野宿の大火で五層楼の吉野本陣や旅籠屋「藤屋」(その後「ふじや」)も消失してしまいました。ふじやは翌年に再建され、長い間の風雪に耐えた2階建ての建物です。「吉野宿ふじや」には、この地域の遺跡から出た土器類、昔からの生活用具、主な産業だった炭焼き や養蚕に関するもの、吉野宿の面影を伝えるジオラマなどの資料が展示されています。
〔 歴史的建造物マップ(吉野地区) 〕
藤野の歴史的建造物めぐり協議会(ふじの里山クラブ、横浜国立大学 大野敏) 相模原市
〔 勝瀬橋 〕 構造・規模:2径間連続鋼斜張橋 橋長270m 幅員15.25m / 建築年代:平成18(2006)年
特徴:旧橋では幅員が狭く、重量制限があるなど地域交通に支障をきたしていたため、神奈川県の「さがみさかわ九橋緊急整備計画」の対象となり、上流側に平成18年に新橋に掛けかえられました。旧橋は昭和18年建造の我が国初の斜張橋として貴重でした。
〔 吉野橋 〕 構造・規模:鋼トラスアーチ橋、橋長95m 幅員6m / 建築年代:昭和8(1933)年
指定・認定:日本の近代土木遺産2800選 / 特徴:国道20号線と沢井川の交点に架かる鋼トラスアーチ橋
〔 吉野宿 ふじや 〕
建築年代:明治30(1897)年 ※ 人足控帳/構造形式:桁行8間、梁行5間、2階建、切妻造・瓦棒鉄板葺(元板葺)
特徴:明治29年の吉野大火で焼失するまで「藤屋」の屋号で旅館業に従事していましたが、再建以後は旅館業ではなく農業に専念したようで二階は蚕室でした。一方、二階正面をほとんど掃き出し窓として縁を張り出す手法や、土間脇に「通り土間」的な庇屋根を設ける点は町屋の特徴を継承しています。19世紀後期以降の当地域の養蚕民家は、空間的にも意匠的にも町屋を意識する傾向が窺われます。当家は旧藤野町に寄贈された後、二階屋内を養蚕形式に復しましたが、窓形式や外装・一階土間廻りは公開施設として必要な手を加え「郷土資料館ふじや」として公開しています。
〔 山本家住宅主屋 〕
建築年代:明治6(1873)年 ※家伝/構造形式:桁行7間、梁行4間半、2階建、切妻造・瓦棒鉄板葺(元板葺らしい)
特徴:昭和16年相模湖建設に伴い現在地に移築されました。間取りはいわゆる「田の字割り」の整形4間取りで、2階は
本来全体が一室の蚕室でしたが、一部を居室に改造しています。2階正面は出桁造を採用して意匠的に立派に見せています。また、掃き出しや両端に設けた戸袋及び手摺付縁は、2階建町屋の典型的な意匠でもあるとともに、養蚕を行う上でも機能的です。つまり、山本家のような2階建住宅は、町屋意匠を指向しつつ養蚕農家としても大変工夫された建築なのです。
〔 吉野家土蔵 〕
建築年代:19世紀前半頃/構造形式:桁行4間、梁行3間、3階建土蔵 置き屋根は切妻造・鉄板葺
特徴:吉野宿の旧本陣は、かつて五層楼(明治9年の建築)がそびえ立ち、明治天皇の甲州道中御巡幸時の行在所を務めました。五層楼は明治29年の吉野大火により焼失しましたが、3階建の大型土蔵は大火を耐え現存しています。しかも建築年代は江戸時代に遡る可能性が高く、本陣時代の唯一の遺構としても貴重です。この土蔵は国道20号の歩道整備により曳家(ひきや)移転しました。この際、基礎は延べ石上に木製土台を廻していたことと、土台の一部は応急修理が行われていたことが確認されました。今回の曳家では、コンクリート基礎を新設し、旧基礎延べ石は敷地内に保存しました。
■■ 「 一ノ尾 尾根 」と「 矢ノ音 」 ■■ ※ 自分なりの結論は「 一ノ尾(いちのお)尾根 」・「 矢ノ音(やのね)」。
一ノ尾 尾根 | 一ノ尾根 | やのおと | やのね |
藤野観光協会 |
陣馬山登山口 |
相模湖案内所 |
陣馬山山頂にて |
陣馬山登山口 |
『日本山名事典』
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明王峠にて |
藤野観光協会 |
藤野観光協会 |
矢ノ音分岐にて |
「藤野観光協会」は『藤野15名山』の紹介・案内パンフレットより。「相模湖案内所」は相模湖駅前の観光案内所で入手した相模湖エリア・藤野エリアの『観光ガイドマップ』より。『日本山名事典』は三省堂発行の改訂版より。ほかは現地案内板より。
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