都立〔 滝山公園 〕( 滝山城跡/滝山城址 ) 八王子市 2019.2.10  ● OTG Carousel[jQueryScript.net] ● 公園へもどる
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#1-1天野坂(あまのざか)から枡形虎口(ますがた こぐち)へ
 大手口と思われる天野坂からの堀底道(ほりぞこみち)は、城兵が効果的に攻撃ができるように工夫されている。小宮曲輪と三の丸の間には枡形虎口(出入口)が設けられていた(図の中で復元)。攻めのぼる敵側にとっては大変な驚異にさらされる場所で、進入するのが難しかったと思われる。

#2-1コ(こ)の字型土橋(どばし)(強力な側面攻撃)〕
 堀を掘る際に、一部を土のまま残し通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。敵の直進を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。

#3-1馬出(うまだし)(少人数で守れる出入口前の防御設備)〕
 虎口(こぐち/出入り口)の前方に設けた空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。二の丸の三ヶ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられている。

#4-1二の丸(集中的防御)〕
 滝山城で最も防御性に優れているのが二の丸である。三ヶ所の出入口にはすべて「馬出(うまだし)」を備え、集中的な防御の構えが認められる。大馬出(おおうまだし)は大勢の城兵が守り、二方向からの通路を抑えている。築城家は、二の丸を防ぐことによって、本丸、中の丸を守れると考えたようだ。

#5-1 〔 都立 滝山公園
 この城の大きな特徴は、二の丸の防御方法にある。二の丸へは三方面から侵入できるが、どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。その中の二ヶ所は方形の平場で「角馬出」と呼ばれている。寄せ手(敵方)はこの馬出を占拠しなければ、二の丸へは侵入できなかった。こうした二の丸防御の堅固さから、永禄12年(1569)10月、甲斐武田信玄との滝山合戦において、城主氏照は二の丸櫓門の上で奮戦し、敵を退けたと軍記物に語られるようになった。軍記物の記述の真偽はともあれ、このとき氏照は自らの書状で古甲州道沿いの城下「宿三口(しゅくみくち)」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に伝えている。

#6-1行き止まりの曲輪(くるわ)(ふくろのねずみ)〕
 「行き止まりの曲輪」とは「ふくろのねずみ」という意味で、両端が狭い土橋になっていて行き止まりのような形になる。寄せ手側には行き止まりのからくりだが、城兵からすると格好な馬出(うまだし/攻撃用)となり、実に巧妙な防御が施されている。こうした「行き止まり」の曲輪は二の丸の南側にもあり、大変貴重な城郭遺構である。

#7-1中の丸南側の防御(櫓門(やぐらもん)の推定)〕
 中の丸の南側は二方向から攻め寄せられ敵が合流できる場所だった。この場所には木橋の前面を守る防御設備が必要である。土塁の残り方から考えて、櫓門があったのではないかと推定される。

#8-1 〔 都立 滝山公園
 滝山城は、相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。北条氏照は、これまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久の養子として滝山城に入ったとされていた。しかし、近年の研究では、氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子、大石綱周の養子になったと考えられている。滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10年(1567)までには滝山城を居城としていたとみられる。永禄12年(1569)10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき氏照は、古甲州道沿いの城下「宿三口(しゅくみくち)」へ兵を繰り出して戦ったと、越後の上杉謙信に自らの書状で伝えている。その後、天正10年(1582)ごろから新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城(市内元八王子町)へと移っていったのである。

#9-1中(なか)の丸(まる)(本丸の次に重要な曲輪)〕
 「中の丸」の山腹には腰曲輪(こしぐるわ)と呼ばれる平場(ひらば)が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。附近には河越道の渡河地点である「平(たいら)の渡し」がある。この重要な地点を抑えるために滝山城は構築されたと考えられる。

#10-0 〔 国史跡 滝山城跡・枡形虎口(ますがた こぐち)

※ タイルの解説板は9枚。下の解説は左3枚(上→中→下)、中央3枚、右3枚(上→中→下)の順に並んでいます。
#10-1  この場所は、中の丸から引橋を渡って本丸に入る虎口(こぐち/城の出入り口)という部分に当たります。虎口は、防御と攻撃の両方の機能を備えたもので、中世末において発達したものですが、滝山城の虎口は、周囲を土塁で方形に囲った枡形(ますがた)虎口と呼ばれるもので、北条流の築城の特徴の一つと言われています。滝山城跡は都立公園として整備されていますが、東京都では、平成8年11月5日〜12月28日にわたって、枡形虎口の発掘調査を行いました。調査は東京都教育委員会・八王子市教育委員会の指導の下に行われ、現在は元通りに埋め戻してあります

#10-2  調査の結果、現状の地表から深さ約 1.2mのとこりに、30〜40cmの偏平な川原石を敷きつめた通路が発見されました。その幅は引橋側で 5.4m、右に直角に曲がると約 3.0m、さらに左に曲がると約 2.0mとだんだん狭くなっていました。引橋側には、南側と西側にL型状に側溝がつき、その先は一部暗渠(あんきょ)となって土塁の中につながっています。また、土塁の断面からは、赤土(ローム)と黒土を交互に突き固めた版築(はんちく)も確認されました。

#10-3  枡形虎口に埋められた石
 枡形虎口は大量の石で埋められていました(写真−4)。これは、新しく築いた八王子城に移る際、滝山城を廃城にしたときのものと考えられます。写真−5 はその石を一か所にまとめた状態の写真です。

#10-4 #10-5 #10-6本丸入口付近 〕 通路の幅は曲がるごとに狭くなり、この部分では約 2.0mとなります。これは、大勢の敵の侵入を防ぐための工夫と思われます。

#10-7  土塁の断面
 水平に土を盛り上げていることが分かります。石畳の面から測ると、土塁の高さは約 4.7mにもなります。

#10-8  側溝と暗渠
 本丸内に降った雨水を流すための施設と思われます。一部は暗渠で土塁の中を通しています。

#10-9  枡形虎口全景
 右手前が引橋・中の丸、左手奥が本丸になります。

#11-1滝集落(たきしゅうらく)から本丸(ほんまる)への侵入路(搦手口からの侵入路)〕
 本丸北西側の枡形虎口(出入口)は滝集落からの侵入路を抑えている。この侵入路を防御するため、出丸(でまる)と本丸から挟み打ちできるように工夫している(二方向から敵を挟んで攻める)。出丸の先端部分には馬出(うまだし)を備え、縦横の堀と共に強力な防御態勢を整えていたと思われる。

#12-1本丸(ほんまる)への木橋(きばし)(最終的な砦へ導く橋)〕
 当時の木橋はもう少し下に架けられていた。おそらく、中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる。人工的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦になっていた様子がわかる。「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。

#13-1小宮曲輪(こみやぐるわ)(家臣屋敷)〕
 「小宮曲輪」と称されてきているので氏照の家臣の中に西多摩地域出身の家臣(小宮氏)が活躍していたと思われる。小宮曲輪の内部は土塁(土盛り)でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられる。小宮曲輪と三の丸との間には枡形虎口(ますがたこぐち/出入口)があったが車道により消滅した(図の中で復元)。

#14-1小宮曲輪(ぐるわ)枡形虎口(ますがたこぐち)(北の備え)〕
 山の神曲輪方面から小宮曲輪へと攻め進むには、枡形虎口(出入口)を通過しなければならない。敵は狭い通路で一列縦隊にならざるを得ない。それに対して城兵は、敵の頭上や側面から弓矢、槍、鉄砲で攻撃をする。敵にとってはてごわい場所に攻め入ることになる。

#15-1山の神曲輪(ぐるわ)(民衆の避難場所と推定される)〕
 「山の神」とは全国各地に残る民間信仰で、農耕の神である。春は里に下り、秋の収穫を見守ると再び山に戻ってくる。この山の神を祀る山の神曲輪は、城下や周辺村々の民衆たちを、敵の乱取り(放火や略奪)から守るために設けられた避難場所だったと考えられる。永禄12年(1569年)、城周辺の村々は武田軍(武田信玄)によって焼き払われた。このとき、一般の民衆は領主の城(滝山城)へ避難していたと思われる。

#16-1木橋(きばし)(引き橋)〕
 唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。そのため、防御は厳重を要した。この橋は「引き橋」だったと思われる。橋の下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張(城の設計)になっていた。

#17-1 都立〔 滝山公園
◆ 公園概要 〜 多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵にあり、都立滝山自然公園の一部です。標高 160mの公園の北には田園風景や多摩川の景観を望むことができます。またここは、古くからのハイキングコースとして親しまれています。付近一帯はサクラの名所としても知られ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ約 5000本が春を彩ります。
◆ 滝山城跡 〜 戦国時代中期に建てられた滝山城は、川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸、二の丸、千畳敷、空堀などの貴重な遺構があります。滝山城跡は、昭和26年に国の史跡として指定されました。
◆ 滝山の自然 〜 園内の多くは自然豊かな雑木林で、季節ごとに様々な野草などが見られます。