〔 町田駅から原町田界隈 〕 町田市 2018.7.11  ( まちだフットパス2 ) ● 公園のページへ戻る
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〔 1/64 〕 小田急線「町田」駅。交番のある東口へ出る。「No.7・地図(PDF)」参照。
〔 2/64 〕 「原町田 わかば公園」を通過
〔 3/64 〕 「母智丘(もちお)神社」へ参拝する。「解説」参照。
〔 4/64 〕 「茅(かや)の輪くぐり」。くぐり方の図がある。
〔 5/64 〕 本殿
〔 6/64 〕 境内を通り抜けて振り返る
〔 7/64 〕 「芹ヶ谷(せりがや)公園」。前方の階段をおりる。
〔 8/64 〕 左へ進む
〔 9/64 〕 オランダカイウ(阿蘭陀海芋)。サトイモ科。池の中。
〔 10/64 〕 公園内の散策路
〔 11/64 〕 石の形と配置に庭園づくりの妙味を感じる
〔 12/64 〕 鯉がゆったりと泳いでいる
〔 13/64 〕 前方、道路下のトンネルへ
〔 14/64 〕 左手の花壇
〔 15/64 〕 ハナスベリヒユ(花滑りひゆ)。スベリヒユ科。園芸種。
〔 16/64 〕 左:クロアゲハ(アゲハチョウ科)/右:モンキアゲハ(アゲハチョウ科/白い斑紋がある)
〔 17/64 〕 公園内を通過する
〔 18/64 〕 左手に「せりがや 冒険遊び場」がある
〔 19/64 〕 「虹と水の広場」。水が勢いよく流れ落ちてくる。
〔 20/64 〕 後ろを振り返って
〔 21/64 〕 「町田市立 国際版画美術館」へ
〔 22/64 〕 1階ロビー。2階常設展「深沢幸雄(ふかざわゆきお)生をきわめて」観覧。入場無料。
〔 23/64 〕 会場内撮影禁止。会場を出て。「駒井哲郎(1920-1976)が愛用したプレス機」。「解説」参照。
〔 24/64 〕 美術館1階の喫茶室「けやき」。かき氷を注文する。「外で食べる」のが条件。
〔 25/64 〕 かき氷「いちご」。100円(税込)。以上、国際版画美術館にて。
〔 26/64 〕 前方、車止めの道へ
〔 27/64 〕 「原町田 ふるさとの森」へ入る
〔 28/64 〕 散策路の様子
〔 29/64 〕 「ふるさとの森」を出て、住宅地を通り抜ける。電柱の住所表示は「高ヶ坂(こがさか)」。
〔 30/64 〕 「高ヶ坂 熊野神社」へお参りする
〔 31/64 〕 本殿
〔 32/64 〕 熊野神社の由緒が書かれた石板と案内板。「解説」参照。
〔 33/64 〕 神社裏手の通路を進む。「高ヶ坂遺跡」へ。
〔 34/64 〕 前方左の坂をのぼる
〔 35/64 〕 「牢場遺跡(ろうばいせき)」。「解説」参照。
〔 36/64 〕 「敷石住居跡(しきいしじゅうきょあと)」。発見当時のまま保存してあるとのこと。
〔 37/64 〕 「高ヶ坂遺跡」は「牢場遺跡」・「稲荷山遺跡」・「八幡平遺跡」3つで構成の由。「解説」参照。
〔 38/64 〕 「史蹟ヶ坂石器時代遺蹟/昭和2年3月建設」石標
〔 39/64 〕 坂をのぼる
〔 40/64 〕 のぼりきって後ろを振り返る
〔 41/64 〕 JR横浜線沿いを歩く。後ろを振り返って。前方は「成瀬」駅方面。
〔 42/64 〕 「南橋(みなみばし)」に到着
〔 43/64 〕 信号の先を右へ入る。左は「町田街道」。
〔 44/64 〕 「馬頭觀世音」の石碑。「大正16年1月」の文字が刻まれている。以上、南橋にて。
〔 45/64 〕 道なりに左へ
〔 46/64 〕 消火栓の手前を右へ入る。駐車場を通過。
〔 47/64 〕 「渋池弁財天社」
〔 48/64 〕 「町田 天満宮」へお参りする。「解説」参照。
〔 49/64 〕 牛の石像
〔 50/64 〕 本殿。町田天満宮は菅原道真公を祀っている。
〔 51/64 〕 ここにも牛の像
〔 52/64 〕 鳥居。前方は町田駅方面。以上、町田天満宮にて。
〔 53/64 〕 曹洞宗「金森山 宗保院(そうほいん)」。後ろに「町田市立 中央図書館」の建物が見える。
〔 54/64 〕 石柱を通過
〔 55/64 〕 仁王門。「解説」参照。
〔 56/64 〕 鐘楼
〔 57/64 〕 本堂
〔 58/64 〕 「本尊 南無千手観世音菩薩」の赤い幟(のぼり)。以上、宗保院にて。
〔 59/64 〕 浄土宗「勝楽寺(しょうらくじ)」にお参りする
〔 60/64 〕 左右一対の「宝筺塔山門(ほうきょうとうさんもん)」を通り抜ける
〔 61/64 〕 「月影の鐘」
〔 62/64 〕 「無量寿(むりょうじゅ)の塔」
〔 63/64 〕 「紹體a(しょうりゅうでん)」。本堂。以上、勝楽寺にて。
〔 64/64 〕 「絹の道 中央通り」を通って町田駅へ向かう
【 解説 】    ※ 画像クリック拡大表示

#1-1〔 宗教法人 母智丘(もちお)神社 〕 鎮産地:町田市原町田5丁目12番地11号 / 御祭神:豊受姫大神 大歳大神
由緒:大正8年3月日向国北諸県郡庄内町地内(現・都城市)。石峰山山頂に鎮座せる母智丘大神の御神徳を感得せし黒木昇、黒木ハナの両人御分霊を勧請し自宅に奉斎せしが家屋鳴動し畏懼(いく)の念に堪えず社殿を創建し奉鎮座した。社殿の老朽化により昭和60年10月社殿の造営がおこなわれ、夜陰遷座祭を同年11月9日奉祝祭を執行した。伊勢外宮の神明造に擬して設計施工せられた。従って大祭式は現在庭上での祭典となって居る。( ※「祭典」・「其の他」・「祭神」省略 )

#2-1駒井哲郎(1920-1976)が愛用したプレス機 〕 これは駒井哲郎が1951年初めから1961年まで使用していた銅版画用プレス機です。駒井自身が設計し機械工場に注文、1950年末に完成して、世田谷区新町(現在の駒沢4丁目)の自宅の庭にあった小さなアトリエで使い始めました。木でできた台座部分も駒井の設計です。このプレス機について駒井は、完成時の喜びを次のように言い表しています。
 「今まで僕が使っていたのにくらべると、お父さんと子供みたいに違う。今までのは、機械というよりはむしろ道具といった方があたっていたけれど、今度のは絶対に機械の部類に入る立派なものです。」(『駒井哲郎 若き日の手紙』美術出版社、1999年)
 その一方で、完成品を見て、こんなことも言っています。
 「良く調べてみると、設計どおり確実には出来ていなかったけれど――たとえば、動く台が短かすぎることやローラーの上下が不便なことなど――まあ、充分以上に充分なので、そのまま引き取ることにして、……」(『駒井哲郎 若き日の手紙』)
 ともあれ、このプレス機から駒井の代表作となる《束の間の幻影》や、詩人安東次男との詩画集『からんどりえ』などが生まれたわけです。その後1960年8月に新居が完成してからまもなく、駒井は新しいプレス機を入手、このプレス機は、駒井が講師をしていた東京造形美術研究所の宮本徳太郎氏の所蔵となり、さらにその後千葉の美術教師・西村紘治氏の手へと渡りました。現在は、西村氏より寄贈され、町田市立国際版画美術館の所蔵となっています。

#3-1 #3-2高ヶ坂(こがさか) 熊野神社
鎮座地:町田市高ヶ坂1425番地/御祭神:いざなぎの命 いざなみの命(縁結びの神)
由緒:創建の年代は詳らかでない。熊野那智大社の地形に似ていて社殿の裏山に滝があった。水源に奉斎したのである。天保14年(1843)毎年地頭より米六斗の奉納があり、除地分として六百坪があった。大正12年9月(1923)の関東大地震のため社殿倒壊、その後再建した。現社殿は昭和51年(1976)の造営である。
境内社:桜稲荷社/秋葉神社/日枝神社/浅間神社
鎮守 高ヶ坂 熊野神社
鎮座地:町田市高ヶ坂2-38-1(旧字 西の原)
御祭神:伊邪那岐命「イザナギノミコト」、伊邪那美命「イザナミノミコト」、天照皇大神「アマテラスオオミカミ」
併祭神:大山咋命「オオヤマクイノミコト」(日枝神社)
素盞鳴尊「スサノヲノミコト」(牛頭天王)「ゴズテンノウ」(日枝神社 旧境内社)
此花咲邪姫命「コノハナサクヤヒメノミコト」(浅間神社)
境内社:桜稲荷神社 祭神 宇迦之御魂命「ウガノミタマノミコト」(旧祭地 旧字狐山)
由緒:創建の年代は不詳とされる。但し南北朝・室町時代、殊に永享年間(1430年代)小山田十二郷の人々は、天台宗京都聖護院本山派に属す修験・図師村の大蔵院を先達として熊野詣を行った。
#4-1 #4-2 #4-3牢場遺跡(敷石住居跡) ろうばいせき(しきいしじゅうきょあと)〕 高ヶ坂石器時代遺跡発見の端緒となった場所です。大正14年(1925年)の調査では5m×3.85mの不整楕円形の平面形態をもつ敷石住居跡と報告されています。住居のほぼ中央に石囲いの炉が確認され、炉を覆うように大形の土器片が出土しています(縄文時代後期堀之内式期)。調査後、この遺構は現地で保存されることとなります。1966年の整備では竪穴住居の壁の崩落を防ぐためコンクリートで固められました。2015年、再整備のためコンクリートを除去し、住居跡の再確認を行いました。その結果、円形の住居ではなく西側に柄部を持つ柄鏡形である可能性がでてきました。敷石住居周辺から回収された土器片は縄文時代後期堀之内式期のものが主体を占めます。これらの遺物や大正時代調査時の出土遺物から本遺構は縄文時代後期堀之内式期のものと考えられます。
稲荷山遺跡(配石遺稿)〕 大正14年(1925年)の調査では6.67m×4.23mの範囲に石が敷き詰められているのが確認されました。遺構に伴い土器片多数、磨製石斧1点、打製石斧2点、敲石1点が出土しました。これらの遺物は帝室博物館(現東京国立博物館)に収蔵されましたが、現在では所在が不明になっています。2014年に再調査を実施し、大正時代に調査した遺構を再確認しました。ただし隣接する道路で一部遺構が消失していました。遺構が住居かどうか確認するため柱跡や炉跡を調べましたが確認できませんでした。また周辺からは縄文時代後期・晩期の遺物が出土しました。発見された遺構は保護のため埋め戻されています。現在は石を使って遺構を再現したものを見ることができます。
〔 国指定史跡 高ヶ坂石器時代遺跡 〕 高ヶ坂石器時代遺跡は牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡の3つの遺跡から構成されます。大正14年(1925年)10月、牢場遺跡の調査が実施され、石が敷き詰められた遺構が確認されました。この遺構は炉を伴うことから住居跡(敷石住居跡)と考えられました。牢場遺跡に隣接する稲荷山遺跡では、土器片・石が露出している状況が確認されたため、牢場遺跡の調査に引き続き調査を実施し、石がまとまって確認されました(配石遺稿)。また、住民からの報告により八幡平遺跡の調査も実施され、石を敷き詰め炉を伴う遺構(敷石住居跡)が確認されました。発見された敷石住居とは床面の一部または全面に石を敷き詰めた住居です。縄文時代中期から後期にかけて東北地方南部から関東・中部地方にみられ、一般的な住居とする説、祭祀に関する特殊な建物とする説があります。縄文時代の住居構造の研究は高ヶ坂石器時代遺跡で敷石住居跡が調査された大正時代後半から盛んになります。当時の研究は貝塚の調査を中心とするもので、丘陵地における高ヶ坂石器時代遺跡の発見は、貴重な事例となりました。遺跡は現地で保存されることとなり、牢場遺跡には上屋がかけられ見学できるようになりました。稲荷山遺跡と八幡平遺跡は埋め戻されました。そして大正15年2月24日、高ヶ坂石器時代遺跡は敷石住居跡の発見第一号として国の史跡に指定されました。指定から年月が過ぎ、埋め戻された稲荷山遺跡・八幡平遺跡の正確な位置は不明確となり、見学できる牢場遺跡の上屋も老朽化が著しくなってきました。そこで遺構の再調査等を行い、その成果をもとに遺跡の再整備を実施しました。牢場遺跡については発見当時のまま、本物の遺構を見ることができます。稲荷山遺跡・八幡平遺跡は埋め戻した上に石を使って遺構を再現しました。町田市教育委員会 2017年3月設置

#5-1町田天満宮 〕 当神社は文教の祖神菅原道真公を主祭神とし、日枝社(ひえしゃ)、飯綱社(いいづなしゃ)を併せて奉斎し、天正年間この地に鎮座、町田三天神の内の一社で、本町田菅原神社、南大谷天神社と共に古くから崇敬されてまいりました。主祭神菅原道真公は、承和12年京都に生まれ、菅家廊下(かんけろうか)と云われる儒学の家として幼少より勉学に努め、宇多天皇、醍醐天皇に信任を得て、右大臣に任命されました。しかし、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により、昌泰4年太宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷され九州太宰府に下向、配所にあっては天を怨まず人を咎めず、ひらすら皇室の安泰を祈念され、延喜3年2月25日、御歳59歳で薨去(こうきょ)されました。このように不遇な文人政治家であった菅原道真公が生涯を通じて示した至誠の道は、文学者としての才能と共に後の人々に認められ、天神信仰が全国に流布(るふ)し崇敬されております。併祭神大山咋命(おおやまくいのみこと)は大津市坂本の日吉神社を総本社として、近くは赤坂日枝神社があり、俗に山王(さんのう)様と呼ばれています。併祭神宇加能御魂神(うかのみたまのかみ)は五穀の神として飯縄(いいづな)様と呼ばれ、長野県飯縄(いいづな)山に本社があります。

#6-1 #6-2 #6-3 〔 宗保院 仁王門 〕 左:本堂に向かって左側の像 / 中:右側の像
布袋尊(ほていそん) 〕 家庭円満の神。中国・梁の唐時代(618〜917)、無邪気で無欲な心の豊かさを諭す禅僧「布袋和尚(ほていおしょう)」を神格化したものと云われますが、釈尊の救いに洩れたものを救うため、この世に現れると信じられる未来仏「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の化身とも云われます。平成20年 原町田・七福会
《 原町田・七福神 》
 恵比寿神(商売繁盛)―町田天満宮 / 布袋尊(家庭円満)―宗保院(そうほいん)
 寿老人(不老長寿)―勝楽寺(しょうらくじ)/ 福禄寿(財宝守護)―町田商工会議所
 毘沙門天(福寿増長)―浄運寺(じょううんじ)/ 弁財天(芸術財福)―母智丘神社(もちおじんじゃ)
 大黒天(五穀豊穣)―小田急東口広場
 町田市の中心商業地「原町田商店街」は、天正15年(1587)に開設された「二の市」が天保年間に六斉市「二・六の市」となり、諸物資の集散地として繁栄の基礎が築かれました。安政6年(1859)の「横浜開港」により、輸出品の花形「生糸」が運ばれた“絹の道”の中継地として発展し今日に至っています。昭和33年(1958)に誕生し“市制施行50周年”を迎えた「町田市」と、歴史と伝統を有する「原町田商店街」の隆盛発展を祈念し、原町田地区内に福徳の神[七福神]を祭祀しました。平成20年 原町田・七福会