【 解説 】 ※ 画像クリック拡大表示
〔 野津田薬師堂 〕 開山=行基菩薩/開創=天平年間
縁起:普光山福王寺と号し、聖武天皇御宇天平年間の草創にして本尊薬師如来は開山行基菩薩が勅を奉じて作る所なり。その時に華巌嚴経一部と若干の封戸とを賜り勅願所となり幾星霜を経た。光嚴帝の正慶2年殿宇寶経兵火にかかって烏有(うゆう)となり唯勅書と醫王大士、夜叉神の尊躰のみを残す。その後柏原帝の永正3年越国の軍卒寶閣に乱入して勅書と華嚴経を奪却、廃寺と果せし時、正親帝の元亀4年密乗の師興満阿闍梨寺を修し佛躰の損せるを補い、法器の廃せるを興し漸く本に復し自営の功を遂(と)ぐ。その後霊像を尊奉し秘佛となし寛文10年より33年毎に開扉を行い、現在では武相寅歳開扉霊場である。現在の建物には狩野信矩筆による龍と天人の天井絵が描かれている。
〔 采女(うねめ)霊神のゆらい 〕 天津児屋根尊の子孫である北小路左衛門慰藤原春公の三男采女介が、天文年間(1532年〜1555年)に髪結職を創始した。降って十一代の長七郎が三方原合戦の時、徳川家康公にお供して天龍川で浅瀬を案内したことによって、銀、銭、刀等を賜り、天正18年(1590年)江戸城に召された。そして町奉行所に関する仕事を授けられ、長脇差を許される等、特典を与えられ大いに用いられた。これを記念して、春公二十七代の藤原半蔵基之が、その大要を由緒書きによって石に刻み、同好諸氏に示したものである。町田理容組合
〔 薬師堂 木造薬師如来坐像 〕
町田市指定有形文化財/指定年月日:1987年(昭和62年)12月11日
薬師堂の本尊像。欅材(けやきざい)の一木造(いちぼくづくり)、素地(きぢ)、彫眼(ちょうがん)の像で、頭体幹部を一材から彫成(ちょうせい)して内刳(うちぐり)は行わず、両脚部(横一材、底部から刳(く)る)を矧(はぎ)つけ、左手首を差し込み、右肘(ひじ)、胴手首(右前膊部(ぜんぱくぶ)後補)を矧(は)ぐ。螺髪(らほつ)を始め、衣部の襞(ひだ)、体躯(たいく)の微妙な肉取りなどが省略されており、極めて素朴な表現の像である。恐らく、この地付近の素人(しろうと)的仏師によって制作されたものであろう。構造や技法から推測して平安後期、11世紀頃の作と考えられる。当市内屈指の古い仏像の一つとして、当地方の古代史にとって重要な作品である。像高 70.6センチメートル
〔 福王寺(ふくおうじ)旧園地(きゅうえんち)(薬師池公園)〕
東京都指定名勝/所在地:町田市野津田町3424番地ほか/指定:平成10年3月13日
薬師池公園のある野津田村は、古い記録によると野蔦とも書き、戦国時代には北條氏照(ほうじょううじてる)の支配領域であったことが知られている。高野山真言宗華嚴院(けごんいん)は、天平年間(てんぴょうねんかん)(729〜749)行基の開基といわれる寺院であり、室町時代末には荒廃していたのを元亀(げんき)4年(1576)僧興満(こうまん)が暖沢(ぬくざわ)に再興し福王寺薬師堂と称した。現在野津田薬師といわれている薬師堂は、福王寺薬師堂のことで明治16年(1883)の再建である。薬師池は野津田薬師のほとりの池の意味であり、江戸時代には福王寺溜井(ためい)といわれていた。薬師堂周辺のクヌギやコナラの雑木林は、古くから郷土の誇りとなる原風景として親しまれており、都市開発が進んだ現在も武蔵野の雑木林の面影をよく残している。また毎年地域住民の協力で炭焼きも行われており、薪炭林(しんたんりん)としての機能も認められる数少ない二次林の一つとして重要であり、郷土景観として名勝に相応(ふさわ)しい地域である。庭園や公園のような人文的名勝ではなく、二次的自然景観の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。平成11年3月31日 建設 東京都教育委員会 〔 ※ 右端の写真は境内のイチョウの木 〕
〔 町田市指定史跡(通称)鎌倉井戸 〕 鎌倉時代に掘られたものと言われ、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘り、この水を軍馬(ぐんば)に与えたと語り伝えられている。井戸の深さは約4メートルあり、表土の部分は永い年月の間に崩れ落ちているが、地表から約1.5メートル下のローム層の部分には、下方に直径約70センチメートル程の円筒形(えんとうけい)の井戸が原型(げんけい)のまま保存されている。この層から、汗の様に滲(し)み出た水が溜(た)まるものと考えられている。昭和54年9月7日指定 町田市教育委員会
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