〔 多摩境から絹の道 〕( まちだフットパス2 ) 町田市・八王子市 2018.1.10 ■ lightcase.js[jQueryScript.net] ■ 公園へもどる
【 解説 】    ※ 画像クリック拡大表示
尾根緑道の歴史 〕 この「尾根緑道」は、以前「戦車道路」と呼ばれていました。それは、この道が第二次世界大戦の末期、相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で製造された戦車の走行テスト用(全長約8キロメートル)として造られたものだからです。戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していました。その後、富士山や丹沢の山々を一望できる景観豊かなこの地に市民のみなさまが楽しむことができるような整備を進めてきました。今では春は桜、秋には紅葉と四季折々に散策やハイキングなどに大いに利用されています。このように、この地はかつての「戦車道路」という「戦争の遺産」から現在は「市民の憩いの場」へと大きく生まれ変わりました。
平成16年(2004年)4月 町田市

かわら尾根と旧津島神社 〕 この北側には、古くから「かわら尾根」と呼ばれている場所があります。発掘調査の結果、4基の瓦窯跡(かわらかまあと)が発見され、ここで作られた瓦は相模国海老名の国分寺と国分尼寺に使われていたことがわかりました。しかし、同じ多摩丘陵にある近隣の窯では、武蔵国府中の国分寺で使われた瓦を作っており、相武両国の境界線がどこにあったのか考える資料のひとつとされています。江戸時代の安永年間に建てられた旧津島神社(つちま様)は、この北側の小高い場所にありましたが、公園の整備に伴い、現在は札次(ふだつぎ)神社(町田市小山町2554番地)に合祀(ごうし)されています。

「鮎のみち(津久井往還)」の由来 〕 この道は「津久井往還」といい、世田谷の三軒茶屋から世田谷通りをへて登戸、鶴川と多摩丘陵を抜け津久井に至る旧街道です。昔、津久井で採れた鮎を江戸の町まで売りにいくのに通っていたことから「鮎のみち」という名で呼ばれていました。現在の都立大東門あたりを抜けて尾根道が通じていて、そこには茶屋や休憩所があったといわれています。

鑓水板木(やりみずいたぎ)の森緑地 名前由来 〕 この地域一帯は岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先の尖った道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。この水を、節を抜いた竹で導き瓶(かめ)などに貯え、飲料水として利用してきた。それを筧(かけひ)と言い、更にこの瓶から水を流れるようにしたものを「遣り水」と言うが、これが鑓水という地名の由来と考えられている。また、板木という名は、古文書のある古絵図に記されている「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地には古くはアイヌ民族がすんでいたと思われる。というのは、この地域から発掘された縄文土器の文様とよく似ているのが、なによりの証拠と考えられているからである。そして、この「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り、甲州・秩父方面へと通じ、浜街道と共に重要な街道であった。

小泉家屋敷 東京都指定有形民俗文化財 〕 所在地:八王子市鑓水2,178/指定:昭和47年4月19日
 小泉家の主屋(建築面積112平方メートル)は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建入母屋造、茅葺、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築を示している。屋敷地の面積は約33.2アールで、南面した道路沿いは宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・胞衣(えな)塚などが点在し、多摩丘陵地域の一般的農家の屋敷構・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
 平成19年3月1日 東京都教育委員会

 ●●● 「八王子市教育委員会」による、地域一帯の史跡等の解説 ●●●
諏訪神社 》 江戸時代中期の子(ね)の権現旧本殿、寛政4年(1792)の子の権現本殿、寛政10年(1798)の諏訪神社本殿、明治18年(1885)の八幡神社本殿、棟札等は市の有形文化財に指定されています。これらの社殿をはじめ、鑓水商人が奉納した石灯籠も当時の繁栄をしのばせます。
絹の道資料館 》 石垣大尽と呼ばれた生糸商人・八木下要右衛門屋敷跡を昭和62年(1987)から発掘し、石積み水路、母屋の礎石等を確認。石垣を修復し、平成2年(1990)3月に開館。絹の道や鑓水商人についての資料等を展示。
御林 》 幕末、江戸湾の台場建設の時、松丸太5000本を切り出し、第六番台場の土台としました。
御殿峠 》 明治17年(1884)8月、借金などに苦しむ武蔵・相模の農民(武相困民党)が返済の延長などを求めて集結したが、解散させられました。
絹の道碑 》 昭和32年(1957)、八王子の橋本義夫氏ら有志によって建てられました。
絹の道 》 かつては浜街道(横浜街道)と呼ばれ、八王子から鑓水、原町田を通って横浜へ通じていました。絹の道と呼ばれるようになったのは昭和30年(1955)ころからです。安政6年(1859)横浜が開港されると、安価で上質な生糸は重要な輸出品となります。八王子に集められた山梨などからの生糸はこの道を通って横浜へ運ばれました。生糸の流通の仲買で活躍したのが地元鑓水の商人たちです。横浜に来航した外国人たちもこの道を通って八王子や高尾山などへ観光に行き、トロイアの遺跡を発掘したドイツのシュリーマンやイギリスの外交官アーネスト・サトウは記録を残しています。また、イギリス人写真家ベアトは鑓水村などの写真を残しています。絹の道資料館先の石塔が立つ分かれ道から道了堂入口までの道は当時の面影を残しています。
道了堂跡(大塚山公園)》 明治7年(1874)、生糸商人たちが浅草花川戸から道了尊を勧請したもの。地元の人々の信仰を集めて繁栄しましたが、その後衰退し、昭和58年(1983)に解体されました。この場所は標高213mあり、眺望の良いことで知られており、明治26年(1893)の石版画「道了堂境内の図」には、立ち並ぶ伽藍とともに十二州の眺望のうち、伊豆大島、江ノ島鎌倉、三浦三崎等が描かれています。御殿橋にこの絵のレリーフがあります。
白山(はくさん)神社(中山)》 文政9年(1826)、境内から仁平4年(1154)の奥書をもつ経巻が入った銅製経筒等が出土しました。経塚と呼ばれるこのような遺構は、経典を経筒に入れて地下に埋め、仏経を後世に伝えようとしたもので、平安時代後期に流行した末法思想に基づいています。明治17年(1884)、大正13年(1924)、昭和51年(1976)にも鏡等が出土し、これらの出土品は東京都の有形文化財に指定され、郷土資料館で保管・展示されています。春には神社一帯が桜に包まれます。
永泉寺 》 本堂は明治17年(1884)に八木下要右衛門邸の母屋を移築したもの。見事な天上画や欄間彫刻の一部は絹の道資料館で展示。芭蕉の句碑、芭蕉堂があり、俳句が盛んであった土地柄をしのばせます。また、鑓水商人・大塚郎吉の墓があります。

永泉寺由緒 〕 永泉寺の開創は弘治元年(西暦1555年)甲斐武田族 永野和泉(武田信玄の叔父に当たるとか)が時の党族争い等の醜さから逃れて、諸家臣と共に鑓水に移住し一宇を建て、家宝の正観音像を奉安し(現在武相観音十四番札所)由木永林寺開山住持に就いて剃髪し覚峰文公と改名し一宇を高雲山永泉庵と称して其の基を開き、当寺開基位となり永禄2年(西暦1559年)9月5日寂す。その後永林寺三世住職 岳應義堅大和尚が天正元年(西暦1573年)当寺を法地寺院として開山し、諸堂山門・七棟を建立する。天正15年(西暦1587年)10月10日寂す。
曹洞宗大本山永平寺・總持寺に属す。現在の本堂は明治18年火災全焼したため鑓水絹商人 八木下要右エ門(やぎしたようえもん)の母屋の寄進をえて移築し、以後奥の間養蚕室・茅葺き屋根を改築し現在に至る。

諏訪神社社殿 四棟/付 棟札など 七点 〕 所在地:八王子市鑓水1078番地/指定年月日:平成7年3月28日
@ 子の権現旧本殿 江戸時代中期建立(推定)
A 子の権現本殿  寛政4年(1792年)建立(文書)
B 諏訪神社本殿  寛政10年(1798年)建立(棟札)
C 八幡神社本殿  明治18年(1885年)建立(造立者銘板)
 諏訪神社は、明治10年に諏訪・子の権現・八幡の三社を合わせたものである。これら四棟の本殿からは、江戸時代中ごろから明治時代にかけての江戸の建築様式が、八王子周辺に伝わった様子をうかがうことができる。これらの本殿の建立には、横浜と輸出用生糸の交易を行った「鑓水商人」がかかわり、子の権現・諏訪・八幡の各本殿の彫刻は、鑓水における幕末から明治にかけての経済的高まりを表している。平成7年10月 八王子市教育委員会

絹の道 市指定史跡 〕 指定区間:御殿橋から大塚山公園(道了堂跡)まで/指定年月日:昭和47年10月26日
 安政6年(1859)の横浜開港から明治はじめ鉄道の開通まで、八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道)を横浜へと運ばれた。八王子の市(いち)にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれた。なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代の末に名づけたものである。平成5年5月31日 八王子市教育委員会